冒頭 赤壁(せきへき)とは、長江流域にある地名で、曹操軍が呉・劉備方の連合水軍に大敗した「赤壁の会戦」の戦場として知られる場所です。吉川英治『三国志』では、現今の湖北省嘉魚県付近の長江南北両岸にまたがる、水陸が入り組んだ地域と...
冒頭 都督(ととく)とは、軍を統率し作戦と軍政を管掌するために置かれる高級武官の官名で、一定の方面軍や兵種をまとめて指揮する職です。吉川英治『三国志』では、水軍の指揮官として「水軍大都督」を置く例が示され、蔡瑁が任じられていま...
冒頭 既生瑜何生亮(すでにゆをしょうじて、なにぞまたりょうをしょうぜしむ)とは、周瑜が自らの不運と宿命を嘆き、天が周瑜を世に生ませながら、なぜさらに諸葛亮(孔明)という同時代の大才を生じたのか、と言い表す成句です。吉川英治『三...
冒頭 周郎赤壁(しゅうろうせきへき)とは、呉の若き都督で「周郎」と称された周瑜と、長江流域で行われた赤壁の戦いとを結びつけて言う語で、赤壁における周瑜の統率と計略を代表させた呼び方です。周瑜は当時「美周郎」とも呼ばれ、年少の俊...
冒頭 赤壁の戦い(せきへきのたたかい)とは、後漢末の建安十三年(二〇八)ごろ、曹操軍と孫権・劉備連合軍が長江(揚子江)流域の赤壁・烏林一帯で戦った水陸の会戦です。吉川英治『三国志』では「青史にのこる赤壁の会戦」として、曹操軍の...
冒頭 孫呉の海洋進出(そんごのかいようしんしゅつ)とは、江東を基盤とする孫氏政権が、長江の水運と沿海の資源を国家の強みとして、水軍力・造船力・沿岸支配を拡充していく動きを指す言い方です。吉川英治『三国志』では、呉の国力の中核と...
冒頭 夷陵の戦い(いりょうのたたかい)とは、蜀の帝玄徳(劉備)が呉を討って長江上流の夷陵方面へ進軍し、呉の大都督陸遜の用兵によって蜀軍が大敗して戦局が決した一連の会戦です。蜀軍は巫峡・建平・夷陵にわたる戦線を維持して章武二年の...
冒頭 右将軍(うしょうぐん)とは、漢代以来の将軍号の一つで、朝廷の軍制上「将軍」に列する高位の武官職です。戦時の指揮権や方面軍の統率、あるいは功績者への叙任として用いられました。 概要 「右」は官職名に付く方位語で、...
冒頭 徐盛(じょせい)とは、呉に仕えた武将で、孫権のもとで江南防衛の指揮を任された人物です。字は文嚮(ぶんきょう)といい、瑯琊莒県(ろうやきょけん)の出身で、早くから武略で知られたとされます。 生涯 孫権の政権下で都...
冒頭 全琮(ぜんそう)とは、江東の呉に仕えた武将で、陸遜の北伐において朱桓と並び都督に任じられ、魏軍を迎え撃つ指揮系統に加わった人物です。 生涯 作中では、全琮は「銭塘の全琮」として出自が示され、輔国大将軍・平北都元...
冒頭 陸抗(りくこう)とは、三国時代末期の呉において、西方国境の防衛を担った将軍で、陸遜の子として知られる人物です。 生涯 呉の名将・陸遜の子として家名を継ぎ、呉が魏に代わって成立した晋(西晋)と対峙する時期に重用さ...
定州(ていしゅう)とは 定州は、中国河北省中部に位置する都市で、現在の河北省定州市にあたる。古代中国では中山国の故地であり、後漢以降は冀州の重要拠点として発展した。 歴史的背景 戦国時代には中山国の都が置かれ、その後...
一 秋七月。魏の曹真は、 「国家多事の秋。久しく病に伏して、ご軫念を煩わし奉りましたが、すでに身も健康に復しましたゆえ、ふたたび軍務を命ぜられたく存じます」 と、朝廷にその姿を見せ、また表を奉って、 ――秋すずしく...
一 呉は、たちまち出て、たちまち退いた。呉の総退却は、呉の弱さではなく、呉の国策であったといってよい。 なぜならば、呉は、自国が積極的に戦争へ突入する意志をもともと持っていないのである。蜀をして魏の頸を咬ませ、魏をして蜀の喉...
一 江南江東八十一州は、今や、時代の人、孫策の治めるところとなった。兵は強く、地味は肥沃、文化は溌剌と清新を呈してきて、 小覇王孫郎 の位置は、確固たるものになった。 諸将を分けて、各地の要害を守らせる一方、ひろ...
一 さきに街亭の責めを負うて、孔明は丞相の職を朝廷に返していた。今度、成都からの詔書は、その儀について、ふたたび旧の丞相の任に復すべしという、彼への恩命にほかならなかった。 「国事いまだ成らず、また以後、大した功もないのに、何...
一 永安城の李厳は、増産や運輸の任に当って、もっぱら戦争の後方経営に努め、いわゆる軍需相ともいうべき要職にある蜀の大官だった。 今その李厳から来た書簡を見ると、次のようなことが急告してある。 近ゴロ聞ク東呉、人ヲシテ洛陽ニ...
一 陸遜は呂蒙より十幾歳も年下だった。当時まだ呉郡の一地方におかれ、その名声は低く、地位は佐官級ぐらいに止まっていた。 だが彼の才幹は呉侯も日頃から愛していたところだし、呂蒙はなおさら深く観てその将来に嘱目していた。 ...
一 壮図むなしく曹丕が引き揚げてから数日の後、淮河一帯をながめると縹渺として見渡すかぎりのものは、焼け野原となった両岸の芦萱と、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸と、そして油ぎった水面になお限りなく漂っている魏兵の死骸だけであった。 ...
一 張郃の言葉を不服そうに聞いていた夏侯淵は、自分の決意はまげられぬというように、 「予がこの地を守り、陣をなすこと久しい。この度の決戦に、万一他の将に功を奪わるるが如きことあらば、なんの面目あって魏王に見えん。御身、よろしく...
一 街亭の大捷は、魏の強大をいよいよ誇らしめた。魏の国内では、その頃戦捷気分に拍車をかけて、 「この際、蜀へ攻め入って、禍根を断て」 という輿論さえ興ったほどである。司馬懿仲達は、帝がそれにうごかされんことをおそれて、 ...
一 夜靄は深くたれこめていた。二十余艘の兵船は、おのおの、纜から纜を一聯に長くつなぎ合い、徐々と北方へ向って、遡航していた。 「とんと、分りません」 「何がです」 「この船団の目的と、先生の心持が」 「は、は、は。...
一 自国の苦しいときは敵国もまた自国と同じ程度に、或いはより以上、苦しい局面にあるという観察は、たいがいな場合まず過りのないものである。 その前後、魏都洛陽は、蜀軍の内容よりは、もっと深刻な危局に立っていた。 それは、...
一 七日にわたる婚儀の盛典やら祝賀の催しに、呉宮の内外から国中まで、 「めでたい。めでたい」 と、千載万歳を謳歌している中で、独りひそかに、 「何たることだ」と、予想の逆転と、計の齟齬に、鬱憤のやりばもなく、仮病をと...
一 孔明の使命はまず成功したといってよい。呉の出師は思いどおり実現された。孔明はあらためて孫権に暇を告げ、その日、すこし遅れて一艘の軍船に身を託していた。 同舟の人々は、みな前線におもむく将士である。中に、程普、魯粛の二将も...