山東
山東(さんとう)とは、中国の東部に位置する地名であり、現代でも「山東省」としてその名前が残っています。三国志の時代にも「山東」は一つの地域的呼称として登場し、特に黄河の東側一帯を指します。この地方は古くから中国文明の中心地のひとつで、歴史的には斉や魯など多くの諸侯国が興亡した土地でもあります。物語の中では、曹操が挙兵した兗州や、その周辺の州郡がこの山東に含まれています。
ただ、樹木の蔭に、一宇の古い孔子廟があった。 劉備は、近づいて、廟にぬかずきながら、 。「そうだ、孔子、今から七百年前に、魯の国(山東省)に生れて、世の乱れを正し、今に至るまで、こうして人の心に生き、人の魂を救っている。人間の偉大を証拠だてたお方だ。その孔子は文を以て、世に立ったが、わしは武を以て、民を救おう――。
「さもあらん」と、劉焉はうなずくことしきりでなおさら、親しみを改め、左右の関、張両将をあわせて、心から敬いもした。 折ふし。 青州大興山の附近一帯(山東省済南の東)に跳梁している黄巾賊五万以上といわれる勢力に対して太守劉焉は、家臣の校尉鄒靖を将として、大軍を附与し、にわかに、それへ馳け向わせた。 関羽と、張飛は、それを知るとすぐ、玄徳へ向って、「人の歓待は、冷めやすいものでござる。歓宴長くとどまるべからずです。
(征賊第一勲) 。 として、皇甫嵩を車騎将軍に任じ、益州の牧に封ぜられ、そのほか恩賞の令を受けた者がたくさんある。わけても、陣中常に赤い甲冑を着て通った武騎校尉曹操も、功によって、済南(山東省・黄河南岸)の相に封じられたとのことであった。 自分が逆境の中に、他人の栄達を聞いて、共によろこびを感じるほど、朱雋は寛度でない。彼はなお、焦心りだして、 。
四川、漁陽の乱も、ようやく一時の平定を見たので、その後、劉虞は朝廷へ表をたてまつって、玄徳の勲功あることを大いにたたえた。 同時に、廟堂の公孫瓚も、 。(玄徳なる者は、前々黄賊の大乱の折にも抜群の功労があったものです)と、上聞に達したので、朝廷でも捨ておかれず、詔を下して、彼を平原県(山東省・平原)の令に封じた。 で、玄徳は、即時、一族を率いて任地の平原へさし下った。行ってみると、ここは地味豊饒で銭粮の蓄えも官倉に満ちているので、 。
「いえ、袁紹の首一つをとるために、大乱の生じるのを怖れるからです。彼は平常、恩徳を布き、門下には吏人も多く、国には財があります。袁紹叛旗を立てたりと聞えれば、山東の国々ことごとく騒いで、それらが、一時にものをいいますぞ」 。「ぜひもない。予に背く者は討つあるのみだ」 。
その中にはまた、どんな豪強や英俊がひそんでいるかも知れなかった。 わけて、第十六鎮の部隊には、時を待っていた深淵の蛟龍がいた。 北平の太守で奮武将軍の公孫瓚がその十六鎮の軍であったが、檄に応じて、北平から一万五千余騎をひっさげて南下してくる途中、冀州の平原県(山東省・津滬線平原)のあたりまで来かかると、 。「しばらくっ、しばらくっ。」 。
諸州の浪人の間で、 。「近ごろ兗州の曹操は、頻りと賢を招き、士を募って、有能の士には好遇を与えるというじゃないか」と、もっぱら評判であった。 聞きつたえて、兗州(山東省西南部)へ志してゆく勇士や学者が多かった。 ここ山東の天地はしばらく静かだったが、帝都長安の騒乱は、去年からたびたび聞えて来た。「こんどは、李傕、郭汜などという者が、兵権も政権も左右しているそうだ」 。