平原
冒頭
概要
歴史
平原は河北方面の諸勢力が往来する地として描かれ、袁紹・公孫瓚らの争いや河北の動揺と隣接して語られます。袁譚が敗れて「平原へ逃げ」、さらに袁尚に包囲される展開もあり、軍事上の退避地・攻防点としての性格が示されます。
政治と経済
関連人物
史実との違い
劉備が平原令・平原相となった点は史実の記録とも大枠で符合しますが、任官の経緯や周辺人物との交渉関係は小説的整理が加わる場合があります。
そのうちには、逃げる機会があるだろう) 。 劉備は、賊の荷物を負って、黙々と、驢と半月槍のあいだに挟まれながら歩いた。丘陵と河と平原ばかりの道を、四日も歩きつづけた。 幸い雨のない日が続いた。十方碧落、一朶の雲もない秋だった。
四川、漁陽の乱も、ようやく一時の平定を見たので、その後、劉虞は朝廷へ表をたてまつって、玄徳の勲功あることを大いにたたえた。 同時に、廟堂の公孫瓚も、 。(玄徳なる者は、前々黄賊の大乱の折にも抜群の功労があったものです)と、上聞に達したので、朝廷でも捨ておかれず、詔を下して、彼を平原県(山東省・平原)の令に封じた。 で、玄徳は、即時、一族を率いて任地の平原へさし下った。行ってみると、ここは地味豊饒で銭粮の蓄えも官倉に満ちているので、 。
その中にはまた、どんな豪強や英俊がひそんでいるかも知れなかった。 わけて、第十六鎮の部隊には、時を待っていた深淵の蛟龍がいた。 北平の太守で奮武将軍の公孫瓚がその十六鎮の軍であったが、檄に応じて、北平から一万五千余騎をひっさげて南下してくる途中、冀州の平原県(山東省・津滬線平原)のあたりまで来かかると、 。「しばらくっ、しばらくっ。」 。
「あ、この者ですか」と、それを機に一堂の諸将軍へも、改めて紹介した。「これは涿県楼桑村の生れで、それがしとは幼少からの朋友です。劉備字は玄徳といって、つい先頃までは、平原県の令を勤めていた者です。――どうかよろしく」 。 曹操は、眼をみはって、 。
袁紹は勢いに乗じて急追撃に移ったが、五里余りも来たかと思うと、突如、山峡の間から、一彪の軍馬が打って出て、 。「待ちうけたり袁紹。われは平原の劉玄徳――」 。 と、名乗る後から、 。「速やかに降参せよ」 。
との云い分で、両方とも、渡りに舟とばかり、勅命に従った。 そこで馬太傳は、盤河橋畔の一亭に、両軍の大将をよんで、手を握らせ、杯を交わしあって、都へ帰った。 袁紹も、公孫瓚も、同日に兵馬をまとめて、おのおの帰国したが、その後、公孫瓚は、長安へ感謝の表を上せて、そのついでに、劉備玄徳を、平原の相に封じられたいという願いを上奏した。 朝廷のゆるしは間もなく届いた。公孫瓚は、それを以て、 。
「誰か、しかるべき説客はないだろうか」 。 曹操がたずねると、侍臣のうちから孔融が答えた。「わたくしの知る範囲では、平原の禰衡しかありません。禰衡ならば、荊州に使いしても、先にひるまず丞相のお名も辱めまいと思われますが」と、推薦した。「禰衡とは、いかなる人物か」 。