漁陽
漁陽(ぎょよう)とは
歴史的背景
後漢においても漁陽は北辺を守る要地であり、同時に反乱や軍事蜂起の舞台となることが多かった。
三国志との関わり
後漢末、張角による黄巾の乱に呼応して各地で賊徒が蜂起した際、漁陽でも劉焉の檄文を受けた劉氏一族や地元の武装勢力が動いたと伝わる。また、公孫瓚が幽州方面で活動する際の軍事行動の拠点の一つとしても言及される。
関連する人物
この動乱と風雲の再発に、人の運命も波浪にもてあそばれる如く転変をきわめたが、たまたま、幸いしたのは、前年来、不遇の地におわれて、代州の劉恢の情けにようやく身をかくしていた劉備玄徳であった。三。 黄匪の乱がやんでからまた間もなく、近年各地に蜂起した賊では、漁陽(河北省)を騒がした張挙、張純の謀叛。長沙、江夏(湖北省・麻城県附近)あたりの兵匪の乱などが最も大きなものだった。「天下は泰平です。
拝賀、礼杯の儀式もすすみ、宴楽の興、ようやくたけなわとなった頃、楽寮の伶人や、鼓手など、一列となって堂の中央にすすみ、舞楽を演じた。 かねて、約束のあった禰衡も、その中にまじっていた。彼は、鼓を打つ役にあたって、「漁陽の三撾」を奏していたが、その音節の妙といい、撥律の変化といい、まったく名人の神響でも聞くようであったので、人々みな恍惚と聞きほれていた。 ――が、舞曲の終りとともに、われに返った諸大将は、とたんに声をそろえて、禰衡の無礼を叱った。「やあ、それにおる穢き者。