美童
一
「……雁が帰る。燕が来る。春は歩いているのだ。やがて、吉平からも何かいい報らせがあろう」
かれの皮膚には艶が出てきた。眉に希望があらわれている。
(一服の毒を盛って、曹操の一命を!)
正月十五日の夜、吉平のささやいたことばがたえず耳の底にある。その実現こそ、彼の老いた血にも一脈の熱と若さを覚えさせてくる待望のものだった。天地の陽気はまさに大きくうごきつつあることを彼は特に感じる。
こよいも彼は食後ひとり後苑へ出て疎梅のうえの宵月を見出していた。薫々たる微風が梅樹の林をしのんでくる。――彼の歩みはふと止まった。
一篇の詩となるような点景に出会ったからである。
男と女だった。
ふたりは恋を語っている。
暗香疎影――ふたつの影もその中のものだし、董承の影と明暗の裡にたたずんでいるので――彼らはすこしも気がつかないらしい。
「……一幅の絵だ」
董承は口のうちで呟きながら、恍惚と遠くから見まもっていた。
水々しい春月が、男女の影に薄絹をかけていた。男はうしろ向きに――羞恥んでいるのか、うつ向いて爪を噛んでいる。
背中あわせに、女はそこらの梅を見ていた。そのうちに、女から振向いて、何か、男に云いかけたが、男はいよいよ肩をすぼめ、かすかに顔を横に振った。
「お嫌?」
女は、思いきったように、ひら――と寄ってのぞきこんだ。
その刹那、老人の体のなかにもあった若い血は、とたんに赫怒となって、
「不義者めッ」と、突如な大声が、董承の口を割ってでた。
男女はびっくりしてとびはなれた。もちろん董承のあたまにはもうそれを詩と見ていることなど許されない。――女性は後閣に住んでいる彼の秘妾であり、男はかれの病室に仕えていた慶童子とよぶ小さい奴僕だった。
「この小輩め。不、不埓者めが!」
董承は逃げる慶童の襟がみをつかんで、さらに大声で彼方へどなった。
「誰ぞ、杖を持ってこい、杖と縄を」
その声に、家臣たちが、馳けつけてくると、董承は、身をふるわして杖で打てといいつけた。
秘妾は百打たれ、慶童は百以上叩かれた。
それでもなお飽きたらないように、董承は、慶童子を木の幹に縛らせた。そして秘妾の身も後閣の一室に監禁させた。
「疲れたから今夜は眠る」と、ふたりの処分を明日にして自分の室へかくれてしまった。
ところが、その夜中、慶童は縄を噛み切って逃げてしまった。
高い石塀を躍りこえると、どこか的でもあるように深夜の闇を跳ぶがごとく馳けていた。
「見ていやがれ、老いぼれめ」
美童に似あわない不敵な眼を主人の邸へふり向けていった。もとより幼少の時、金で買われてきた奴隷にすぎないから、主従の義もうすいに違いないが、生れつき容姿端麗な美童だったから、董承も身近くおいて可愛がり、家人もみな目をかけていた者だった。
――にも関わらず、慶童は、怨むことだけを怨んだ。その奴隷根性の一念から怖るべき仕返しをこころに企んで、彼はやがて盲目的に曹操のところへ密訴に馳け込んでいた。
二
時ならぬ深夜、相府の門をたたいて、
「天下の大変をお訴えに出ました。丞相を殺そうとしている謀叛人があります」
と、駈け込んで来た一美童に、役人たちは寝耳に水の愕きをうけた。
「どうして其方は、そんな主人の大事を、つぶさに知っておるのか。そちも一味の端くれであろうが」
とわざと脅しをかけてみると、慶童はあわてて顔を横に振って、
「滅相もないことを仰っしゃいませ。私は何も存じませんが、正月十五日の夜、いつもくる典医の吉平と主人が、妙に湿ッぽく話しこんでいたり、慨嘆して哭いたりしていますので、次の間の垂帳のかげでぬすみ聞きしていましたところ、いま申しあげたように、丞相様に毒を盛って、他日きっと殺してみせると約束しているではございませんか……。怖ろしさのあまり身がふるえ、それからというもの、私は主人の顔を仰ぐのも何だか恐くなっておりました」
曹操は動じない面目を保とうとしていたが、明らかに、内心は静かとも見えなかった。
階下の家臣に向って、
「事の明白となるまでその童僕は府内のどこかへ匿まっておけ。なお、この事件については、一切口外はまかりならぬぞ」と、云い渡し、また慶童に対しては、
「他日、事実が明らかになったならば、其方にも恩賞をつかわすであろう」といって退けた。
次の日、また次の日。相府の奥には不気味な平常のままが続いていた。――と思うと、あれから四、五日目の明け方のことだった。にわかに一騎の使いが駈けて、典医吉平の薬寮を訪ね、
「昨夜から丞相がまたいつもの持病の頭風をおこされ、今朝もまだしきりと苦しみを訴えておられまする。早暁お気のどくでござるが、すぐご来診ねがいたい」
との、ことばであった。
吉平は心のうちでしめたと思ったが、さあらぬ態で、
「すぐお後より――」と先に使いを帰しておき、さてひそかに、かねて用意の毒を薬籠の底にひそめ、供の者一名を召しつれ驢に乗って患家へ赴いた。
曹操は、横臥して、彼のくるのを待ちかねていた。
自分の顔を、拳で叩きながら、吉平の顔を見るなり、たまらないように叫んだ。
「太医、太医。はやくいつもの薬を調合せてこの痛みをのぞいてくれい」
「ははあ、またいつものご持病ですな。お脈にも変りはない」
次の間へさがると、彼はやがて器に熱い煎薬を捧げてきて、曹操の横たわっている病牀の下にひざまずいた。
「丞相。お服みください」
「……薬か」
片肱をついて、曹操は半身をもたげた。そして薬碗からのぼる湯気をのぞきながら、
「いつもと違うようだな。……匂いが」と、つぶやいた。
吉平は、ぎょっとしたが、両手で捧げている薬碗にふるえも見せず、なごやかな目笑を仰向けて答えた。
「丞相の病根を癒し奉ろうと心がけて、あらたに媚山の薬草を取寄せ、一味を加えましたから、その神薬の薫りでございましょう」
「神薬。……嘘をいえ。毒薬だろう!」
「えっ」
「飲め。まず其方から飲んでみせい。……飲めまい」
「…………」
「なんだ、その顔色は!」
「この藪医者を召捕れっ」
次いで、彼の呶号がとどろいた。応っ――とばかり一団の壮丁は、声と共にとびこんできて、吉平を高手小手に縛りあげてしまった。
三
吉平の縄じりをとって、相府の苑にひき出した武士獄卒たちは、
「さあ、ぬかせ」
「誰にたのまれて、丞相に毒をさしあげたか」
と、打ち叩いたり、木の枝に逆しまに吊るしあげたりして拷問したが、
「知らん。むだなことを訊くな」
とばかりで、吉平は悲鳴一つあげなかった。
曹操は、侍臣を見せにやって、
「容易に口をあくまい。こっちへひっぱって来い」と、命じた。
「老いぼれ、顔をあげろ。医者の身として、予に毒を盛るなど、ただごとの謀ではあるまい。汝をそそのかした背後の者をのこらず申せ。さすれば、そちの一命だけは助けてとらそう」
「ははは」
「汝、なにを笑うか」
「おかしいゆえ、笑うのみじゃ。おん身を殺さんと念じる者、ひとりこの吉平や、わずかな数の人間と思うか。主上を僭し奉る憎ッくき逆賊、その肉を啖わんと欲するものは、天下に溢るるほどある。いちいちそんな大勢の名があげられようか」
「口幅たいヘボ医者め。何としても申さぬな。きっといわんな」
「益なき問答」
「まだ拷問が足らんとみえる。もっと痛い目をみたいか」
「事あらわれたからには、死ぬるばかりが望みじゃ。ひと思いに斬りたまえ」
「いや、容易にはころさぬ。獄卒ども、この老医の毛髪がみな脱け落ちるまで責めつけろ。息の根の絶えぬほどに」
むしろ見ている人々のほうが凄惨な気につつまれてしまった。曹操は余り度をこして、臣下の胸に自分を忌み厭うものの生じるのをおそれて、
「獄に下げて、薬をのませておけ、毒薬でなくてもよろしいぞ」
と、唾するように云った。
それからも連日、苛責はかれに加えられたが、吉平はひと口も開かなかった。ただ次第に、乾魚のように肉体が枯れてゆくのが目に見えて来るだけである。
「策を変えよう」
その一夕、相府の宴には、踵をついでくる客の車馬が迎えられた。相府の群臣も陪席し、大堂の欄や歩廊の廂には、華燈のきらめきと龕の明りがかけ連ねられた。
こよいの曹操はひどく機嫌よく、自身、酒間をあるいて賓客をもてなしなどしている風なので、客もみな心をゆるし、相府直属の楽士が奏する勇壮な音楽などに陶酔して、
「宮中の古楽もよいが、さすがに相府の楽士の譜は新味があるし、哀調がありませんな。なんだか、心が濶くなって、酒をのむにも、大杯でいただきたくなる」
「譜は、相府の楽士の手になったものでしょうが、今の詩は丞相が作られたものだそうです」
「ほう。丞相は詩もお作りになられますか」
「迂遠なことを仰っしゃるものではない。曹丞相の詩は夙に有名なものですよ。丞相はあれでなかなか詩人なんです」
そんな雑話なども賑わって酒雲吟虹、宴の空気も今がたけなわと見えた折ふし、主人曹操はつと立って、
「われわれ武骨者の武楽ばかりでも、興がありますまいから、各位のご一笑までに、ちょっと、変ったものをご覧に入れる。どうか、酒をお醒ましならぬように」
と、断りつきの挨拶をして、傍らの侍臣へ、何か小声でいいつけた。
四
なにか余興でもあるのかと、来賓は曹操のあいさつに拍手を送り、いよいよ興じ合って待っていた。
ところが。――やがてそこへ現れたのは、十名の獄卒と、荒縄でくくられた一名の罪人だった。
「……?」
宴楽の堂は、一瞬に、墓場の坑みたいになった。曹操は声高らかに、
「諸卿は、このあわれな人間をご承知であろう。医官たる身でありながら、悪人どもとむすんで、不逞な謀をしたため、自業自得ともいおうか、予の手に捕われて、このような醜態を、各〻のご酒興にそなえられる破目となりおったものである。……天網恢々、なんと小癪な、そして滑稽なる動物ではないか」
「…………」
もう誰も拍手もしなかった。
いや、咳一つする者さえない。
「情けを知らぬは大将の徳であるまい。曹賊。なぜわしを早く殺さぬか。――人は決してわしの死を汝に咎めはしまい。けれど人は、汝がかくの如く無情なることを見せれば、無言のうちに汝から心が離れてゆくぞ」
「笑止な奴。そのような末路を身で示しながら、誰がそんな口賢いことばに耳をかそうか。獄の責苦がつらくて早く死にたければ、一味徒党の名を白状するがよい。――そうだ、各〻、吉平の白状を聞き給え」
彼は直ちに、獄吏に命じて、そこで拷問をひらき始めた。
肉をやぶる鞭の音。
骨を打つ棒のひびき。
吉平のからだは見るまに塩辛のように赤くくたくたになった。
「…………」
満座、酒をさまさぬ顔はひとつとしてなかった。
曹操は、獄吏へ向って、
「なに、気を失ったと。面に水をそそぎかけて、もっと打て、もっと打て」と、励ました。
満水をかぶると、吉平はまた息を吹きかえした。同時に、その凄い顔を振りながら、
「ああ、わしはたッた一つ過った。――汝にむかって情を説くなど、木に魚を求めるよりも愚かなことだった。汝の悪は、王莽に超え、汝の姦佞なことは、董卓以上だ。いまに見よ。天下ことごとく汝をころして、その肉を啖わんと願うであろう」
「いうてよいことはいわず、いえばいうほど苦しむことをまだ吐くか」
「殺すな。水をのませろ」
酒宴の客はみなこそこそと堂の四方から逃げだしていた。
王子服達の四人も、すきを見てぱっと扉のそばまで逃げかけたが、
「あ、君達四人は、しばらく待ちたまえ」
と、曹操の指が、するどく指して、その眼は、人の肺腑をさした。
「各〻には、そう急ぐにもあたるまい。これから席をかえて、ごく小人数で夜宴を催そう。……おいっ、特別の賓客をあちらの閣へご案内しろ」
「はっ。……歩け!」
五
やがて後から曹操が大股に歩いて入ってきた。
胸におぼえのあることなので、王子服らの四人は、かれの眼を、正視できなかった。
「い、いいえ。……丞相。……何かおまちがいではありませんか」
王子服が、空とぼけて、顔を振りかけると、その頬を、いやというほど平手で撲って、
「ひとを愚にするな。そんな小役人へするような答えに甘んじる曹操ではない」
「お怒りをしずめて下さい。董承の家に集まったのは、まったく平常の交わりにすぎません」
「平常の交わりに、血書の衣帯などを拝み合うのか」
「えっ。……な、なに事を仰せられるのか、とんと思いあたりがございませんが」
「ふ、ふん……」
曹操は、鼻さきで白々と笑いながら、閣の入口をふり向いてどなった。
「兵士! 慶童をそれに連れてきておるか」
「ひきつれて来ました」
「よしっ。ここへ突きだせ」
「はっ」
番兵が手をあげると、階下にどよめいている兵たちが、美少年慶童をひっ張ってきて、四人のまえに突き仆した。
曹操は指さして、
「この者を存じておるか」と、いった。
「慶童! 慶童ではないか貴様は。いったい何だってこんな所へ出てきたのだ」
慶童はそれに対して、小賢しい唇を喋々とうごかした。
「何しに来ていたって、大きなお世話でしょう。それよりもお前さんたちは、もう観念したらどうです。いけませんよ。そんなそらッとぼけた顔していたって」
「こ、この小輩め! 何を申すか、身に覚えもないことを」
「うぬっ」
种輯が跳びかかろうとすると、曹操は横あいから、その脛を跳ねとばした。
「不逞漢めっ。予の面前で、予の生き証人を何とする気だ。――汝らことごとく前非を悔い、ここにおいて有ていにすべてを自白すればよし、さもなくば、難儀は一門三族にまで及ぶがどうだ!」
「…………」
「泥を吐け。――素直に一切を、ここに述べて、予のあわれみを乞え」
すると、四名ひとしく毅然と胸をならべて答えた。
「知らん!」
「存ぜぬ!」
「覚えはない!」
「いかようにもなし給え!」
曹操はずいと身を退いて、四つの顔を一様に見すえていたが、
「よしっ、もう問わん」
ひらりと、閣外へ身をうつし、兵のあいだを割って、彼方へ立ち去ってしまった。
もちろん閣の口はすぐ厳重に閉ざされ、鉄槍の墻をもってぐるりと昼夜かこまれていた。
次の日。