宛城
宛城(えんじょう)とは
歴史的背景
三国志での関わり
宛城は、張繡が本拠としたことで知られる。建安3年(198年)、曹操が宛城を攻めた際、張繡はいったん降伏したが、後に裏切って奇襲をかけ、曹操の長子・曹昂や愛将典韋が戦死するという大事件が起きた(宛城の戦い)。
この戦いは曹操の生涯でも大きな敗北の一つとして知られている。
関連する人物
張繡(宛城を本拠とした群雄)
曹操(宛城攻略を試みるが敗北する)
一。 潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の朱雋も皇甫嵩も、賊軍を追いせばめて、遠く河南の曲陽や宛城方面へ移駐しているとのことであった。「さしも旺だった黄巾賊の勢力も、洛陽の派遣軍のために、次第に各地で討伐され、そろそろ自壊しはじめたようですな」 。 関羽がいうと、 。
打倒曹閥 。 の旗幟をひるがえし、許都へ攻めのぼろうと企てていた一軍は、その張済の甥にあたる張繍という人物を中心としていた。 張繍は諸州の敗残兵を一手に寄せて、追々と勢威を加え、また、謀士賈詡を参謀とし、荊州の太守劉表と軍事同盟をむすんで、宛城を根拠としていた。「捨ておけまい」 。 曹操は、進んで討とうと肚をきめた。
――梅酸渇を医す。 曹操は、日頃の閑に、何かの書物で見ていたことを、臨機に用いたのであろうが、後世の兵学家は、それを曹操の兵法の一として、暑熱甲冑を焦く日ともなれば、渇を消す秘訣のことばとして、思い出したものである。 伏牛山脈をこえてくる黄塵は、早くも南陽の宛城から望まれた。 張繍は、うろたえた。「はや、後詰したまえ」 。
蔡夫人は、劉琮を守護して、軍政の大本営を襄陽城に移した。 時すでに、曹操の大軍は刻々南下して、 。「はや宛城に近し。」 。 とさえ聞えてきたのである。
一。 百万の軍旅は、いま河南の宛城(南陽)まで来て、近県の糧米や軍需品を徴発し、いよいよ進撃に移るべく、再整備をしていた。 そこへ、荊州から降参の使いとして、宋忠の一行が着いた。 宋忠は、宛城の中で、曹操に謁して、降参の書を奉呈した。
「船をみな焼き捨てろ」と、いった。 そして、無事、樊城へ入った。 この大敗北は、やがて宛城にいる曹操の耳に達した。曹操は、すべてが孔明の指揮にあったという敗因を聞いて、 。「諸葛匹夫、何者ぞ」と、怒髪をたてて罵った。
張松は口を曲げて答えた。「聞説。魏の丞相曹操は、むかし濮陽に呂布を攻めて呂布にもてあそばれ、宛城に張繍と戦うて敗走し、また赤壁に周瑜を恐れ、華容に関羽に遭って泣訴して命を助かり、なおなお、近くは渭水潼関の合戦に、髯を切り、戦袍を捨てて辛くも逃げのがれ給いしとか。さるご名誉を持つ幕下の将士とあれば、たとい百万、二百万、挙げて西蜀に攻め来ろうとも、蜀の天嶮、蜀兵の勇、これをことごとく屠るに、なんの手間暇が要りましょうや。丞相もし蜀の山川風光の美もまだ見給わずば、いつでもお遊びにおいでください。