宝剣
一
と、淳于導はなおも勢いに乗って、千余の部下を励ましながら、驟雨の如くこれへ殺到してきたものだった。
「やあ、生捕られたは、味方の糜竺ではないか」
趙雲は、その敵と鎗をまじえながら、驚いて叫んだ。
――と。
「やあっ。それへ来たのは、人間か獣か」
「退がれっ。甘夫人の御前を――」と、叱りとばした。
張飛は、彼のうしろにある夫人の姿に、初めて気がついて、
「何をばかな」
「いや、その噂があったので、もしこれへ来たら。一颯のもとに、大矛の餌食にしてやろうと、待ちかまえていたところだ」
「若君と二夫人のお行方をたずね、明け方から血眼に駆けまわり、ようやく甘夫人だけをお探し申して、これまでお送りしてきたのだ。して、わが君には?」
「この先の木陰にしばしご休息なされておる。君にも、幼君や夫人方の安否をしきりとお案じなされておるが」
云い残すや否や、趙雲は、ふたたび馬を躍らせて、単騎、敵の中へ駆けて行った。
すると彼方から十人ほどの部下を従えた若い武者が、ゆったりと駒をすすめて来た。背に長剣を負い、手に華麗な鎗をかかえている容子、然るべき一方の大将とは、遠くからすぐ分った。
趙雲はただ一騎なので、近づくまで、先では、敵とも気がつかなかったらしい。不意に名乗りかけられて若武者はひどく驚愕した。従者もいちどに趙雲をつつんだが、もとより馬蹄の塵にひとしい。たちまち逃げ散ってしまい。その主人たる若武者は、あえなく趙雲に討たれてしまった。
その際、趙雲は、
「や。いい剣を持っている」と、眼をつけたので、すぐ死骸の背から剣を奪りあげてあらためてみた。
剣の柄には、金を沈めて、青釭の二字が象嵌されている。――それを見て、初めて知った。
伝え聞く、侯恩は、かの猛将夏侯惇の弟であり、曹操の側臣中でも、もっとも曹操に愛されていた一名といえる。――その証拠には曹操が秘蔵の剣「青釭・倚天」の二振りのうち、倚天の剣は、曹操みずから腰に帯していたが、青釭の剣は、侯恩に佩かせて、
「この剣に位負けせぬほどな功を立てよ」
と、励ましていたほどである。
二
趙雲は狂喜した。
かかる有名な宝剣が、はからずも身に授かろうとは。
「これは、天授の剣だ」
背へ斜めにそれを負うやいな、趙雲はふたたび馬へ跳びのって、野に満つる敵の中へ馳駆して行った。
「鬼畜め」
むらがる敵を馬蹄の下に蹂躙しながら、なおも、声をからして、
「お二方あっ。お二方はいずこに」
と、糜夫人と幼主阿斗の行方を尋ねまわっていた。
すでに八面とも雲霞の如き敵影だったが、彼は還ることを忘れていた。すると、傷を負って、地に仆れていた百姓の一人が、むくと首を上げて、彼へ叫んだ。
「将軍将軍。その糜夫人かも知れませんよ。左の股を敵に突かれ、彼方の農家の破墻の陰へ、幼児を抱いて、仆れている貴夫人があります。すぐ行ってごらんなさい。つい今し方のことですから」
指さして教え終ると、そのまま百姓は息が絶えた。
趙雲は、飛ぶが如く、彼方へ駆けて行った。なかば兵火に焼かれたあばら家が、裏の墻と納屋とを残して焦げていた。馬をおりて、そこかしこを見まわしていると、破墻の陰で、幼児の泣き声がした。
「おうっ、和子様っ」
彼の声に、枯草をかぶって潜んでいた貴夫人は、児を抱いたまま逃げ走ろうとした。しかし身に深傷を負っているとみえて、すぐばたりと仆れた。
「糜夫人ではありませんか。家臣の趙雲です。お迎えに来ました。もうご心配はありません」
「もとよりのこと。いざ、あなた様にも」
「いいえ! ……」
「この痛手、この痛手。……たとえふたたび良人のもとへ還っても、もう妾の生命はおぼつかない。もし妾のために、将軍の馬を取ったら、将軍は和子を抱いて、敵の中を、徒歩で行かねばならないでしょう。……もうわが身などにかまわず、少しも早く和子のお身をこの重囲の外へ扶け出して下さい。それが頼みです。臨終の際のおねがいです」
「ええ! お気の弱い! たとえ馬はなくとも、趙雲がお護りして行くからには」
「オオ……喊の声がする。敵が近づいて来るらしい。趙雲、何でそなたは、大事な若君を預りながら、なお迷っているか。早くここを去ってたも。……妾などは見捨てて」
「どうして、あなた様おひとりを、ここに残して立去れましょう。さ、その馬の背へ」
駒の口輪を取って引き寄せると、糜夫人は突如身をひるがえして、傍らの古井戸の縁へ臨みながら、
云うやいな、みずから井戸の底へ、身を投げてしまった。
阿斗は、時に、まだ三歳の稚なさであった。
三
「この内に、敵方の大将らしいのがいる」
と、農家のまわりをひしひしと取巻いていた。
――が、趙雲は、ほとんど、それを無視しているように、馬の尻に一鞭加え、墻の破れ目から外へ突き出した。
「待てっ」と、挑みかかったが、
「おれをさえぎるものはすべて生命を失うぞ」
と、趙雲の大叱咤に、思わず気もすくんだらしく、あっとたじろぐ刹那、鎗は一閃に晏明を突き殺して、飛電のごとく駆け去っていた。
しかし行く先々、彼のすがたは煙の如く起っては散る兵団に囲まれた。馬蹄のあとには、無数の死骸が捨てられ、悍馬絶叫、血は河をなした。
時に、一人の敵将が、背に張郃と書いた旗を差し、敢然、彼の道をふさいで、長い鎖の両端に、二箇の鉄球をつけた奇異な武器をたずさえて吠えかかってきた。それは驚くべき腕力と錬磨の技をもって、二つの鉄丸をこもごも抛げつけ、まず相手の得物をからめ取ろうとする戦法だった。
「しまった」と、さしもの趙雲も、この怪武器には鎗を奪られ、さらに応接の遑もないばかり唸り飛んでくる二箇の鉄丸にたじたじと後ずさった。
(――今は強敵と戦って、功を誇っている場合ではない。若君のお身をつつがなく主君へお渡し奉るこそ大事中の大事)
そう気づいたので趙雲は、急に馬を返して、張郃の猛撃を避けながら馳け出した。
と、見て、張郃は、
と、悪罵を浴びせながらいよいよ烈しく追ってきた。
「得たりや」と、張郃はすぐ馬上から前かがみに、一端の鉄丸を抛りこんだ。ところが、鉄丸は趙雲の肩をそれて坑口の土壁にぶすッと埋まった。
次の瞬間に、張郃の口から出た声は、ひどく狼狽した叫びだった。粘土質の土壁に深く入ってしまった鉄丸は、いかに彼の腕力をもって鎖を引っ張っても、容易に抜けないからであった。
その隙に、趙雲は躍り立って、
「天この若君を捨てたまわず、われに青釭の剣を貸す!」
と、歓喜の声をあげながら、背に負う長剣を引き抜くやいな、張郃の肩先から馬体まで、一刀に斬り下げて、すさまじい血をかぶった。
後に、語り草として、世の人はみなこういった。
(――その折り、坑のうちから紅の光が発し、張郃の眼がくらんだ刹那に趙雲は彼を仆した。これみな趙雲のふところに幼主阿斗の抱かれていたためである。やがて後に蜀の天子となるべき洪福と天性の瑞兆であったことは、趙雲の翔ける馬の脚下から紫の霧が流れたということを見てもわかる)