油情燈心
一
「ああ危なかった」
虎口をのがれたような心地を抱えて、董承はわが邸へいそいだ。
帰るとすぐ、彼は一室に閉じこもって、御衣と玉帯をあらためてみた。
「はてな。何物もないが?」
なお、御衣を振い、玉帯の裏表を調べてみた。しかし一葉の紙片だに現れなかった。
「……自分の思い過しか」
畳み直して、恩賜の二品を、卓の上においたが、何となく、その夜は、眠れなかった。
二品を賜わる時、帝は意味ありげに、御眼をもって、何事か、暗示された気がする。――その時の帝のお顔が瞼から消えやらぬのであった。
それから四、五日後のことである。董承はその夜も卓に向って物思わしく頬杖ついていた。――と、いつのまにか、疲れが出て、うとうとと居眠っていた。
折ふし、かたわらの燈火が、ぽっと仄暗くなった。洩れくる風にまたたいて丁子頭がポトリと落ちた。
「…………」
董承はなお居眠っていたが、そのうちに、ぷーんと焦げくさい匂いが鼻をついた。愕いて眼をさまし、ふと、見まわすと、燈心の丁子が、そこに重ねてあった玉帯のうえに落ちて、いぶりかけていたのであった。
「あ……」
彼の手は、あわててもみ消したが、龍の丸の紫金襴に、拇指の頭ぐらいな焦げの穴がもうあいていた。
「畏れ多いことをした」
穴は小さいが、大きな罪でも犯したように、董承は、すっかり睡気もさめて、凝視していたが、――見る見るうちに、彼のひとみはその焦穴へさらにふたたび火をこぼしそうな耀きを帯びてきた。
玉帯の中の白絖の芯が微かにうかがえたのである。それだけならよいが、白絖には、血らしいものがにじんでいる。
そう気がついて、つぶさに見直すと、そこ一尺ほどは縫い目の糸も新しい。――さては、と董承の胸は大きく波うった。
彼は小刀を取出して、玉帯の縫い目を切りひらいた。果たして、白絖に血をもって認めた密詔があらわれた。
董承は、火をきって、敬礼をほどこし、わななく手に読み下した。
朕聞ク。
人倫ノ大ナルハ、父子ヲ先トシ、尊卑ノコトナルハ、君臣ヲ重シトスト。
夙夜、憂思シテ恐ル、将ニ天下危ウカラントスルヲ。
建安四年春三月詔
「…………」
涙は滂沱と血書にこぼれ落ちた。董承は俯し拝んだまましばし面もあげ得なかった。
「かほどまでに。……何たる、おいたわしいお気づかいぞ」
同時に、彼はかたく誓った。この老骨を、さほどまでたのみに思し召すからには、何で怯もうと、何で、余命を惜しもうと。
しかし、事は容易でない。
彼は血の密詔を、そっと袂に入れて、書院のほうへ歩いて行った。
二
「ご主人はどうしましたか」
家族のひとりが答えて、
「奥にいらっしゃいますけれど、先日から調べ物があると仰っしゃって引きこもったきり、どなたにもお会いしないことにしております」と、いった。
「それは、変だな。一体、何のお調べ事ですか」
「何をお調べなさるのか、私たちには分りませんが」
「そう根気をつめては、お体にも毒でしょう。小生が参って、みんなと共に、今夜は笑い興じるようにすすめてきましょう」
「いけません。王子服様、無断で書斎へ行くと怒られますよ」
「怒ったってかまいません。親友の小生が室をうかがったといって、まさか絶交もしやしないでしょう」
自分の家も同様にしている王子服なので、家人の案内もまたず主人の書院のほうへ独りで通って行った。家族たちも、ちょっと困った顔はしたものの、ほかならぬ主人の親友なので、晩餐の支度にまぎれたまま打捨てておいた。
主人の董承は、先頃から書院に閉じこもったきり、どうしたら曹操の勢力を宮中から一掃することができるか、帝のご宸襟を安んじてご期待にこたえることができようか。朝念暮念、曹操を亡ぼす計策に腐心して、今も、書几によって思い沈んでいた。
「……おや。居眠っておられるのか?」
そっと、室をうかがった王子服は、そのまま彼のうしろに立って、何を肘の下に抱いているのかと、書几の上をのぞいてみた。
「あっ、君か」
びっくりしたように、彼はあわてて几上の一文を袂の下にしまいかくした。王は、それへ眼をとめながら、
「――何ですか、今のは?」と、軽く追及した。
「いや、べつに……」
「たいそうお疲れのようにお見うけされますが」
「ちと、ここ毎日、読書に耽っているのでな」
「孫子の書ですか」
「えっ?」
「おかくしなさってもいけません。お顔色に出ています」
「いや、疲労じゃよ」
「そうでしょう、ご心労もむりはない。まちがえば、朝門は壊え、九族は滅ぼされ、天下の大乱ですからな」
「げっ……。君は。……君はいったい、何を戯れるのじゃ」
「国舅。もし小生が、曹操のところへ、訴人に出たらどうしますか」
「訴人に?」
「そうです。小生は今日まで、あなたとは刎頸の交わりを誓ってきたものとのみ思っていました。――ところが、何ぞ知らん、あなたは小生に水くさい秘し事を抱いておいでになる」
「…………」
「無二の親友と信じてきたのは、小生だけのうぬ惚れでした。訴人します。――曹操のところへ」
「あっ、待ち給え」
董承は、彼の袖をとらえ、眼に涙をうかべて云った。
「もしご辺がそれがしの秘事を覚って、曹操へ訴え出るなら、漢室は滅亡するほかない。君も累代漢室のご恩をこうむった朝臣のひとりではないか。……どんな親密な仲であろうと、友への怒りは私怨である。君は、私怨のために大義を忘れるような人ではなかったはずだが」
三
「安んじて下さい。小生とても、なんで漢室の鴻恩を忘れましょうや。今いったのは戯れです。――だが、尊台が大事を秘すのあまり、小生にもかくして、ただお独りで憂い窶れておられることは、親友として不満でなりません」と、いった。
董承は、ほっと、胸をなでおろしながら、彼の手をいただいて額に拝し、
「ゆるし給え。決して君の心を疑っていたわけではないが、まだ自分は明らかな計策がつかないので、数日、混沌と思いわずらっていたわけです。――もし君も力をかして、わが大事に与してくれれば、それこそ天下の大幸というものだが」
「およそ貴憂は察しています。願わくば、一臂の力をお扶けして、義を明らかにしてみせましょう」
「ありがとう。今は何をかくそう。すべてを打明ける。うしろの扉をしめてくれたまえ」
董承は襟を正した。そして彼に示すに、帝の血書の密詔を以てし、声涙共にふるわせながら、意中を語り明かした。
王子服も、共々、熱涙をうかべて、しばし燭に面をそむけていたが、やがて、
「よく打明けてくださいました。よろこんで義に与します。誓って、曹操を討ち、帝のおこころを安んじましょう」と、約した。
「これで、君もわれとの義盟にむすばれたが、なお、よい同志はないであろうか」
「あります。将軍呉子蘭は、小生の良友ですが、特に忠義の心の篤い人物です。義を以て語れば、必ずお力となりましょう」
「それは頼もしい。朝廟にも校尉种輯、議郎呉碩の二人がある。二人とも漢家の忠良だ。吉い日をはかって、打明けてみよう」
夜も更けたので、王子服はそのまま泊ってしまった。そして翌る日も、主人の書斎で何事かひそかに話しこんでいたが、午頃、召使いがそこへ来客の刺を通じた。
「うわさをすれば影。よいところへ」と、董承は手を打った。
「誰ですか、お客は」
王子服がたずねると、
「ゆうべ君にもはなした宮中の議郎呉碩と校尉种輯じゃよ」
「連れ立って来たのですか」
「そうじゃ。君もよく知っているだろう」
「朝夕、宮中で会っています。――が、両名の本心を見るまで、小生は屏風の陰にかくれていましょう」
「それがいい」
客の二人は召使いの案内で通されてきた。
董承は出迎えて、
「やあ、ようお越し下すった。きょうは徒然のあまり読書に耽っていたところ、折からのご叩門、うれしいことです」
「読書を。それは折角のご静日を、お邪魔いたしましたな」
「何、書にも倦んでいたところじゃ。しかし、史はいつ読んでもおもしろいな」
「春秋ですか。史記ですか」
「史記列伝を」
「時に」と、呉碩が、はなしの穂を折って、唐突に云いだした。
「先ごろの御猟の日には、国舅もお供なされておりましたね」
「むむ、許田の御猟か」
「そうです。あの日、何かお感じになったことはございませんか」
計らずも、自分の問おうとする所を、客の方から先に訊ねられたので、董承はハッと眉をあらためた。
四
……だがなお、相手の心は推し測れない。人のこころは読み難い。
董承はふかく用心して、
「いや、許田の御猟は、近来のご盛事じゃったな。臣下のわれわれも、久しぶり山野に鬱を散じて、まことに、愉快な日であった」
さりげなく答えると、呉碩、种輯のふたりは、改まって、
「それだけですか」となじるようにいった。
「――愉快な日であったとは、国舅のご本心ではありますまい。われわれはむしろ今も痛恨を胆に銘じております。――なんで愉快な日であるものか。許田の御猟は、漢室の恥辱日です」
「なぜかの……」
「なぜかとお問いなさいますか。では国舅には、あの日の曹操の振舞いを、その御眼に、何とも思わずご覧なさいましたか」
「……すこし、声をしずかにし給え。曹操は、天下の雄、壁に耳ありのたとえ、もしそのような激語が洩れ聞えたら」
「曹操がなんでそんなに怖ろしいのですか。雄は雄にちがいありませんが、天の与さぬ奸雄です。われら、微力といえども、忠誠を本義とし、国家の宗廟を護る朝廷の臣から見れば、なんら、怖るるに足る賊ではありません」
「卿らは、そんなことを、本心からいわるるのか」
「もとよりこんなことは、戯れに口にする問題ではありますまい」
「だが、いかに痛恨してみても、実力のある曹操をどうしようもあるまいが」
「正義が味方です。天の加護を信じます。ひそかに、時を待って、彼の虚をうかがっていれば、たとい喬木でも、大廈高楼でも、一挙の義風に仆せぬことはありますまい。……実は、今日こそ、国舅のお胸を叩いて、真実の底をうかがいたいものと、ふたりして伺った次第です」
「…………」
「国舅、あなたは先日、ひそかに帝のお召しをうけ、大廟の功臣閣にのぼられて、その折何か、直々に、特旨をおうけ遊ばしたでございましょうが。……ご隔意なく打明けてください。われわれとて、累代、漢の禄を喰んできた朝臣です」
この少壮な宮中の二臣は、つい声が激してくるのを忘れて、董承へ問い迫っていた。
――と、さっきから屏風のうしろにひそんでいた王子服は、ひらりと姿を現して、
「曹丞相を殺さんとなす謀叛人ども、そこをうごくな。すぐ訴人してこれへ相府の兵を迎えによこすであろう」と、大喝した。
种輯、呉碩のふたりは、驚きもしなかった。冷ややかに王子服を振向いて、
「忠臣は命を惜しまず、いつでも一死は漢にささげてある。訴人するならいたしてみろ」
と、剣に手をかけて、彼が背を見せたら、うしろから、一撃に斬って捨てん――とするかのような眼光で答えた。
「いや、お心のほど、確と見とどけた」
と、同時にいって、ふたりの激色をなだめた。そして改めて密室に移り、試みた罪を謝して、
「これを見給え」と、帝の血書と、義文連判の一巻とを、それへ展べた。
种輯、呉碩は、
「さてこそ」
と、血の御文を拝し、哭いて、連判に名をしるした。
折も折、そこへ、取次の家人から、
五
「悪いところへ」
「本国へ帰る挨拶に伺ったとあれば、お会いにならないわけにもいかないでしょうが」
と、主の顔を見まもった。
董承は、顔を振って、
「いや、会うまい。ふと、変に気どられまいものでもない」
あくまで要心して、取次の者に、許田の御猟からずっと病気で引きこもっているから――と丁寧に断らせた。
だが取次ぎの者は、何べんもそこへ通ってきた。
「――病床でもよろしいからお目にかかりたいと云って、いくらお断り申しあげても帰りません」
と、いうのである。
「――それにまた、御猟以来、ご病気中とのことだが、先頃、宮門に参内する姿をちらりとお見かけした程だから、さほどご重病でもあるまいと、威猛高に仰っしゃって、容易にお戻りになる気色もございませんので」と、取次の家人は果ては、泣声で訴えてくるのだった。
「しかたがない。――では、別室でちょっと会おう」
「国舅は、天子のご外戚、国家の大老と敬って、特に、おわかれのご挨拶に伺ったのに、門前払いとは、余りなお仕打ちではないか。何かこの馬騰に、ご宿意でもおありでござるか」
「宿意などとはとんでもない。病中ゆえ、かえって失礼と存じたまでのこと」
「それがしは、遠い辺土の国境にあって、西蕃の守りに任じ、天子に朝拝する折もめったになく、国舅とも稀にしかお目にかかれんで、押してご面会をねがったわけだが――こう打見るところ、さしてご病中のようにも見られぬ。何故、それがしを軽んじて、門前から逐い返さんとなされたか。近ごろ心得ぬことではある」
「…………」
「なんでご返辞もないか」
「…………」
「うつむいたまま唖の如く一言もないとは、どういうわけだ。――ああ、今まで、御身を、馬騰はひとりで買いかぶっていたとみえる」
憤然と、彼は席を立ちながら、主の沈黙へ唾するように云い捨てた。
董承は、彼の荒い跫音にやにわに面をあげて、
「将軍っ、待ちたまえ」
「なんだ、苔石」
「儂を国の柱石でないとは、いかなるわけか。理由を聞きたい」
「曹操は、兵馬の棟梁、一世の丞相、その怒りを抱いたところでどうしよう」
「ばかな!」
馬騰は眉をあげて、
「生をむさぼり、死をおそるる者とは、共に大事を語るべからず。――いや、お邪魔いたした。其許はせいぜい陽なたで贅肉をあたためて頭や腮の白い苔を養っているがよろしかろう」
「待たれい。この苔石がも一言、改めておはなし致したいことがある」
と、むりに袂をひいて、奥の閣に誘い、そこで初めて董承は、密詔のことと自分の心の底を割って語った。
六
「お身にも、自分と同じ志があると知ったとき、この董承の胸は、血で沸くばかりじゃったが、待てしばしと、なお、無礼もかえりみず、ご心底をはかっていたわけじゃ。幸いにも、将軍が協力してくれるならば、大事はもう半ば、成就したようなもの。――この連判に御身も加盟して賜わるか」
云ううちにも馬騰はまなじりを裂き、髪さかだち、すでに風雲に嘯く日のすがたをおもわせるほどだった。
呉子蘭も、この日、一員に加わった。同志は六名となった。
「真に心のかたい者が、十名も寄れば、大事は成るか」と、そこの密室は、やがて前途を祝う小宴となって、各〻、義杯を酌みかわしながら、そんなことを談じ合った。
「そうだ……宮中の列座鴛行鷺序をとりよせて、一人一人、点検してみよう」
董承は思いついて、直ちに記録所へ使いを走らせてそれを取寄せた。
列座鴛行鷺序というのは殿上の席次と地下諸卿にいたるまでの名をしるした官員録である。それをひらいて順々に見て行ったが、さて、人は多いが真に信頼のできる人はなかった。すると馬騰が、
「あった! ここに唯ひとり人物がある」と、さけんだ。
彼の声は、いくら側の者がたしなめても、常に人いちばい大きいので人々はびくびくしたが、あったと聞いて、
「誰か」と、彼の手にある一帖へ顔をあつめた。
「おお……」
「それはどうして分りますか」
しかし、玄徳の人物をよく知っているだけに、彼をひき入れることは容易ではないと思った。大事の上にも大事を取ったがよかろうと、その日は立別れて、おもむろに好い機会を待つこととした。