西涼
西涼(せいりょう)とは
西涼は後漢時代の中国西部、現在の甘粛省・陝西省西部一帯を指す地域の呼称。西方の国境地帯であり、羌族など異民族との衝突が絶えなかった軍事的要地である。三国志においては、董卓や馬騰、韓遂といった群雄が拠点としたことで知られる。
歴史
地理と経済
西涼はシルクロードの通過点にあたり、交易による富を持つ一方で、農耕には厳しい自然条件の地でもあった。そのため騎馬民族との交流・戦闘が絶えず、武勇に優れた兵が多く育った。
関連する人物
白皙秀眉、丹唇をむすんで、唯々として何進の警固についてはいるが、どうもその輦の中にある上官よりも典軍の一将校たる彼のほうが、もっと底の深い、もっと肚も黒い、そしてもっと器も大きな曲者ではなかろうかと見られた。 × × × 。 ここに、西涼(甘粛省・蘭州)の地にある董卓は、前に黄巾賊の討伐の際、その司令官ぶりは至って香しくなく、乱後、朝廷から罪を問われるところだったが、内官の十常侍一派をたくみに買収したので、不問に終ったのみか、かえって顕官の地位を占めて、今では西涼...
と吠えるが如き答が、正面へきた軍の真ん中に轟き聞えた。 千翻の旗、錦繍の幡旗、さっと隊を開いたかと見れば駿馬は龍爪を掻いて、堂々たる鞍上の一偉夫を、袁紹の前へと馳け寄せてきた。 これなん先頃から洛陽郊外の澠池に兵馬を駐めたまま、何進が再三召し呼んでも動かなかった惑星の人――西涼の刺史董卓であった。 董卓、字は仲穎、隴西臨洮(甘粛省岷県)の生れである。身長八尺、腰の太さ十囲という。
と、いう頼もしい者が現れてきたりした。 もっとも、その兄弟は、曹家がまだ譙郡にいた頃、曹家に養われて、養子となっていた者であるから、真っ先に馳せつけて来るのは当然であったが、そのほか毎日、軍簿に到着をしるす者は、枚挙にいとまがないくらいであった。 山陽鉅鹿の人で李典、字は曼成という者だの――徐州の刺史陶謙だの――西涼の太守馬騰だの、北平太守の公孫瓚だの――北海の太守孔融なんどという大物が、おのおの何千、何万騎という軍を引いて、呼応して来た。 彼の帷幕にはまた、曹仁、曹洪のふたりの兄弟も参じ...
一。 西涼(甘粛省・蘭州)の地方におびただしい敗兵が流れこんだ。 郿塢の城から敗走した大軍だった。 董卓の旧臣で、その四大将といわれる李傕、張済、郭汜、樊稠などは、連名して、使者を長安に上せ、 。
「こんどは、李傕、郭汜などという者が、兵権も政権も左右しているそうだ」 。 とか、 。「西涼軍は、木ッぱ微塵に敗れて、再起もおぼつかないそうだ」 。 とか、また、 。「李傕という男も、朝廷を切ってまわすくらいだから、前の董卓にもおとらない才物とみえる」 。
「勝手にしろ」 。「では」と、楊奉は、皇甫酈を、外へ連れ出して放してやった。 皇甫酈は、まったく、帝のお頼みをうけて、和睦の勧告に来たのだったが、失敗に終ったのでそこから西涼へ落ちてしまった。 だが、途々、「大逆無道の李傕は、今に天子をも殺しかねない人非人だ。あんな天理に反いた畜生は、必ずよい死に方はしないだろう」 。
「こう城攻めも長びいては、必ず心腹の患いが起きるだろう。曹操の武力を侮り、後方に小乱の蜂起するは目に見えている。しかも都の北には、西涼の憂いがあるし、東には劉表、西には張繍、おのおの、虎視眈々と、この曹操が脚を失って征途につかれるのをうかがっているところだ……」 。 思いあまってか、諸大将をあつめた上で、曹操もとうとう弱音を吐いてしまった。「師を帰そう。