孫権は、一方には、刻々迫る戦機を見ながら、一面直ちに、その居府を、建業(江蘇省・南京)へ遷した。 かくてその地には、白頭城が築かれ、旧府の市民もみな移ってきた。 また、呂蒙の意見を容れて、濡須(安徽省・巣湖と長江の中間)の水流の口から一帯にかけて、堤を築いた。これに使役される人夫は日々数万人、呉の国力の旺なることは、こうした土木建築にも遺憾なくあらわれた。 もちろんこれは、やがて来るべきものに対する国防の一端である。
両軍は悪戦苦闘のままたがいに譲らず、はや幾月かを過していた。「曹操が呉へ攻め下ったという報らせが来た。濡須の堤をはさんで、魏呉、死闘の大戦を展開中であるという。……龐統、いかがしたらよいか」 。 玄徳がたずねた。
孫権も涙を流してつぶやいた。 しかし、大事はここに一頓挫をきたした。呉軍は、新手を加えて、再装備の必要に迫られ、ついに大江を下って、呉の濡須まで引返してしまった。 遼来々。遼来々。
いわんや、呉といえば、あの赤壁の恨みが勃然とわいてくるにおいてはである。「漢中の守りは、張郃、夏侯淵の両名で事足りなん。われは南下して、直ちに呉の濡須にいたらん」 。 曹操は決断した。壮図なお老いずである。
曹操は百戦練磨の人。孫権は体験少なく、ややもすれば、血気に陥る。 いまや、濡須の流域をさかいとして、魏の四十万、呉の六十万、ひとりも戦わざるなく、全面的な大激戦を現出したが、この、天候が呉に利さなかったといえ、呉は主将孫権の軽忽なうごきによって、その軸枢をまず見失い、彼自身もまた、まんまと張遼、徐晃の二軍に待たれて、その包囲鉄環のうちに捉われてしまった。 曹操は小高い阜の上から心地よげに見ていた。「今ぞ。
と云ったが、曹丕は否と断言して―― 。「呉が蜀に勝てば、その勢いで、呉が蜀へ雪崩れこむだろう。この時こそ、わが兵馬が、呉を取るときだ」と、掌を指すごとく情勢を説き、やがて曹仁に一軍をさずけて濡須へ向わせ、曹休に一軍を付けて洞口方面へ急がせ、曹真に一軍を与えて南郡へやった。かくて三路から呉をうかがって、ひたすら待機させていたのは、さすがに彼も曹操の血をうけた者であった。 × × × 。
この本営には、櫛の歯をひくような急変の報らせが、呉国の諸道から集まってきた。すなわちいう、 。「魏の大軍が、三路にわかれ、一道は曹休軍が洞口に進出し、曹真は南郡の境に迫り、曹仁ははや濡須へ向って、雲霞の如く南下しつつあります」――と。「果たして。」と、陸遜は手を打って、自分の明察の過たなかったことを自ら祝し、また呉国のために、大幸なりしよと、すぐさま対戦の姿勢をとった。