隴西
隴西(ろうせい)とは
歴史的背景
漢代には多くの名士を輩出した地域でもあり、「隴西の李氏」と呼ばれる李氏一族(後に唐の李氏王朝に繋がる)が有名である。
三国志での関わり
関連する人物
馬超(隴西の騎兵を率いた勇将)
李氏一族(隴西を本貫とする名門)
千翻の旗、錦繍の幡旗、さっと隊を開いたかと見れば駿馬は龍爪を掻いて、堂々たる鞍上の一偉夫を、袁紹の前へと馳け寄せてきた。 これなん先頃から洛陽郊外の澠池に兵馬を駐めたまま、何進が再三召し呼んでも動かなかった惑星の人――西涼の刺史董卓であった。 董卓、字は仲穎、隴西臨洮(甘粛省岷県)の生れである。身長八尺、腰の太さ十囲という。肉脂豊重、眼細く、豺智の光り針がごとく人を刺す。
こういう慾望と情勢の目標にされては、いかに馬超でもたまるものではない。追い詰められ追い詰められ、また、取って返しては敵に当り、踏み止まっては追手と戦い、果ては、わずか三十騎に討ちへらされ、夜も寝ず、昼も喰わず、ひたすら西涼へさして逃げ落ちた。 龐徳と馬岱とは、途中、馬超とも別れ別れになってしまい、遠く隴西地方を望んで敗走したが、それと知って、曹操は自身、 。「いま彼らを地方へ潜伏させては」 。 と、禍いの根を刈るつもりで、あくまでも追撃を加えていた。
一。 忽然と、蒙古高原にあらわれて、胡夷の猛兵をしたがえ、隴西(甘粛省)の州郡をたちまち伐り奪って、日に日に旗を増している一軍があった。 建安十八年の秋八月である。この蒙古軍の大将は、さきに曹操に破られて、どこへか落ちて行った馬騰将軍の子馬超だった。
一。 彗星のごとく現われて彗星のようにかき失せた馬超は、そも、どこへ落ちて行ったろうか。 ともあれ、隴西の州郡は、ほっとしてもとの治安をとりもどした。 夏侯淵は、その治安の任を、姜叙に託すとともに、 。「君はこのたびの乱に当ってよく中央の威権を保った勲功第一の人だ」 。
「街亭をとれば、孔明も漢中へ退くしかない。兵糧運送の途はここに絶えるでな」 。「隴西の諸郡も、食を断たれては、崩壊退却のほかありますまい。実に都督の好計、たれかよく思い及びましょう」 。「――いやいや、計だけを聞いて、そうにわかによろこぶなかれじゃ。
一。 長安に還ると、司馬懿は、帝曹叡にまみえて、直ちに奏した。「隴西諸郡の敵はことごとく掃討しましたが、蜀の兵馬はなお漢中に留っています。必ずしもこれで魏の安泰が確保されたものとはいえません。故にもし臣をして、さらにそれを期せよと勅し給わるならば、不肖、天下の兵馬をひきい、進んで蜀に入って、寇の根を絶ちましょう」 。
司馬懿は、それに答えて、 。「お味方は、街亭に一勝はしたが、その代りに、呉に一敗をうけてしもうた、孔明はかならず、お味方のこの敗色をうかがって、ふたたび迅速な行動を起してくるにちがいない。――隴西の地、急なるとき、誰がよく孔明を防ぎますか。かくいう司馬懿のほか人はないと思う。それ故にいそぎ上って参った」 。