鬢糸の雪
一
「えっ、荊州が陥ちた?」
「ほんとだろうか? まさか?」
と、わくわく思い迷った。
そして堰城近くまで駈けてくると、こはいかに城は濛々と黒煙を噴いている。そして炎の下から蜘蛛の子のように逃げ分かれてくる味方の兵に問えば、
「いつのまにか搦手へ迫ってきた徐晃の手勢が、火焔を漲らして攻め込んだ」と、口々にいう。
「さては今日の戦こそ、彼の思うつぼにはまった味方の拙戦であったか」
地だんだ踏んで叫んだが、事すでに及ばない。関平は駒を打って、四冢の陣へ急いだ。
廖化は、彼を迎えて、営中へ入るとすぐ、
「流言はすべて、敵の戦意をくじく謀だ。猥りに嘘言を伝え、嘘言に興味を持つ者は斬るぞ」
数日のあいだは、もっぱら守って、附近の要害と敵状を見くらべていた。四冢は前に沔水の流れをひかえて、要路は鹿垣をむすび、搦手は谷あり山あり深林ありして鳥も翔け難いほどな地相である。
「いま徐晃は勝ちに乗って、急激な前進をつづけ、彼方の山まで来ておると、偵察の者の報告だ。思うにあの裸山は地の利を得ていない。反対にわが四冢の陣地は、堅固無双、ここは手薄でも守り得よう。ひとつご辺と自分とひそかに出て、彼を夜討ちにしようではないか」
曠野の一丘に、一の陣屋がある。いわゆる最前線部隊である。この小部隊は、点々と横に配されて、十二ヵ所の長距離に連っている。
「今夜、敵の裸山へは、自分が攻め上ってゆく。ご辺はこの線を守り、敵の乱れを見たら、十二陣聯珠となって彼を圧縮し、四散する敗兵をみなごろしになし給え」
ところが山上には、旗影だけで、人はいなかった。
「しまった」
急に駈けくだろうとすると、諸所の窟や岩の陰や、裏山のほうから、いちどに地殻も割れたかと思うような喊声、爆声、罵声、激声――さながら声の山海嘯である。
呂建、徐商の二将は、
「小伜、汝の父は、逃げることばかり教えたのか」
と、関平を追いまわした。
山を離れて、野に出ても、魏軍はふえるばかりだった。草みな魏兵と化して関平を追うかと思われた。
廖化の守っていた線も、この怒濤をさえぎり切れず、いちどに崩壊してしまった。いやいや、そこはまだしも、四冢の陣からも、炎々たる火焔が夜空を焦き始めた。あえぎあえぎ沔水のながれまで来てみれば、まっ先に徐晃が馬を立てて、
「ひとりも渡すな」
と、手落ちなき、殲滅陣をめぐらしている。
「面目もありません」
と、拳で悲涙を拭った。
「兵家の常だ」
と、語気あらく戒めた。
二
「見えたるか、徐晃」
関羽が左の臂の矢瘡は、いまは全く癒えたかに見えるが、その手に偃月の大青龍刀を握るのは、病後久しぶりであった。
「徐晃はお避けなさい」
「徐晃はむかしの友だ。一言申し聞かせて、われ未だ老いず――を見せ示しておかねばならん」
馬上、礼をほどこし、さて、彼はいう。
「一別以来、いつか数年、想わざりき将軍の鬢髪、ことごとく雪の如くなるを。――昔それがし壮年の日、親しく教えをこうむりしこと、いまも忘却は仕らぬ。今日、幸いにお顔を拝す。感慨まことに無量。よろこびにたえません」
「否とよ将軍、すでにお忘れありしか。むかし少年の日、あなたが我に教えた語には、大義親を滅すとあったではないか。――それっ諸将。あの白髪首を争い奪れっ。恩賞は望みのままぞ!」
大声一呼、馬蹄に土を蹴るやいなや、うしろの猛将たちと共に、彼も斧をふるって、関羽へ撃ってかかった。
この退き鉦は、まさに虫の知らせだった。同じ頃、久しく籠城中の樊城の兵が、門を開いて突出してきた。これは死にもの狂いの兵なので、包囲は苦もなく突破され、そこにあった関羽軍は、襄江の岸へとなだれを打って追われた。
この二方面の頽勢から、関羽軍は全面的の潰えを来し、夜に入ると続々、襄江の上流さして敗走しだした。
道々、魏の大軍は、各所から起って、この弱勢の分散へ拍車をかけた。わけて呂常の一軍の奇襲には、寸断の憂き目をうけて、江に溺れ死ぬもの、数知れぬほどだった。
ようやく江を渡って、襄陽に入り、味方を顧みれば、何たる少数、何たる酸鼻、さしもの関羽も悲涙なきを得なかった。
魏軍はすぐ江上から市外にわたって満ち満ち、襄陽にも長くいられなかった。――さらば公安の城へとさして行けば、途中、味方の一将が落ちてきて、その公安も傅士仁が城を開いて呉へ渡してしまい、南都の糜芳も彼に誘われて孫権へ降伏したという悲報をもたらした。
「ううむ、いかなれば、かくは……」と、牙を咬み、恨気天を突いて、眦も裂けよと一方を睨んでいたと思うと、如何にしけん関羽はがばと、馬のたてがみへうっ伏してしまった。
臂の瘡口が裂けたのである。
「われ過って、豎子の謀にあたる。何の面目あって、生きて家兄(玄徳)にまみえんや」
と、鎧の袖に面をつつんで声涙ともに咽んでいた。