江東
江東(こうとう)とは
歴史的背景
後漢末、反董卓連合に参加した孫堅は、戦後に袁術の下で兵を挙げつつ江東へ勢力を広げた。孫堅の死後、その子孫策が江東を平定し、さらに孫権が継承して呉の基盤を築いた。江東は長江という大河によって守られ、北方の曹操や西方の劉備に対して天然の要害として機能した。豊かな水運や肥沃な土地に支えられ、呉は長江流域の経済力を背景に独自の勢力を確立した。
関連する人物
・孫堅:江東に足場を築いた最初の孫氏の武将。
物語上の意義
また、弟の妻たる徐氏には、 。「あなたの好きなように、生涯を楽しんでください」と、禄地を添えて、郷里の家へ帰した。 江東の人々は、徐氏の貞烈をたたえて、 。「呉の名花だ」と、語りつたえ、史冊にまで名を書きとどめた。 それから三、四年間の呉は、至極平和だったが建安十二年の冬十月、孫権の母たる呉夫人が大病にかかって、 。
軍の総帥たる袁紹へささやいて、 。「それは考えものですぞ」と讒言した。「彼――孫堅という人間は、江東の虎です。彼を先手として、もし洛陽を陥しいれ、董卓を殺し得たとしても、それは狼をのぞいて、虎を迎えてしまうようなものです。あの功に焦心っている容子を見れば、およそ邪心が察せられます。
文面は、こうであった。異日、印を奪わん為、洛陽の帰途を截ち、公を苦しめたるものは袁紹の謀事なり。今また、劉表と議し、江東を襲って、公の地を掠めんと企つ。いうに忍びず、ただ、公は速やかに兵を興して荊州を取れ。われもまた兵を以て助けん。
大河は大陸の動脈である。 支那大陸を生かしている二つの大動脈は、いうまでもなく、北方の黄河と、南方の揚子江とである。 呉は、大江の流れに沿うて、「江東の地」と称われている。 ここに、呉の長沙の太守孫堅の遺子孫策も、いつか成人して、当年二十一歳の好青年となっていた。「彼は、親まさりである。
「尊神よ。願わくは、わたくしに亡父の遺業を継がせて下さい。不日、江東の地を平定いたしましたら、かならず御廟を再興して、四時怠らず祭をしましょう」 。 そして、そこを去ると、彼は、嶺の道を、もとのほうへは戻らずに、南へ向って降りて行こうとするので諸将は驚きあわてて、 。「ちがいます。
孫策は、即日、法令を布いて、人民を安んじ、秣陵には、味方の一部をのこして、直ちに、涇県(安徽省・蕪湖の南方)へ攻め入った。 この頃から、彼の勇名は、一時に高くなって、彼を呼ぶに、人々はみな、 。 江東の孫郎、 。 と、称えたり、また、 。 小覇王、 。
一。 かくて、小覇王孫郎の名は、旭日のような勢いとなり、江東一帯の地は、その武威にあらまし慴伏してしまったが、ここになお頑健な歯のように、根ぶかく歯肉たる旧領を守って、容易に抜きとれない一勢力が残っていた。 太史慈、字は子義。 その人だった。