汜水
汜水(しすい)とは
歴史的背景
後漢末、董卓が洛陽を拠点とした際、この汜水関を重要な防衛線とし、華雄をはじめとする将軍を配置して諸侯連合軍に備えた。汜水関の戦いは、董卓討伐の檄文に応じて十八路諸侯が蜂起し、最初に大規模な衝突が起きた場所として知られている。
関連する人物
三国志での役割
それにも、人々は、支持の声を送った。「――次いで、直ちに我軍は、北上の途にのぼるであろう。誰か先陣を承って、汜水関(河北省・汜水)の関門を攻めやぶる者はないか」 。 すると、声に応じて、 。「われ赴かん」 。
「で――まだ詳報はこないか」 。「昨夜、夜半から今暁にかけて、ひんぴんたるその早馬です。――すでに、敵は袁紹を総大将と仰ぎ、曹操を参謀とし、その第一手の先鋒を呉の孫堅がひきうけて、汜水関近くまで攻め上ってきた由にございます」 。「孫堅。――ああ、長沙の太守だな。
一。 汜水関のほうからは、たえず隠密を放って、寄手の動静をさぐらせていたが、その細作の一名が、副将の李粛へ、ある時こういう報告をしてきた。「どうもこの頃、孫堅の陣には、元気が見えません。おかしいのは兵站部から炊煙がのぼらないことです。
董卓も、色を失っていた。「味方は、どう崩れたのだ」 。「汜水関に逃げ帰っています」 。「関を出るなと命じろ」 。「取りあえず、援軍の行くまで、そうしておれと命令しておきました」 。
「待ち給え袁術」と、一人の将軍を呼び止めた者がある。 袁術は、袁紹の弟で、兵糧方を一手に指揮している者だ。誰かと思ってふりかえると、それは、さきに汜水関の第一戦で惨敗を喫してから後、常に、陣中でもうけが悪いので肩身せまそうにしていた長沙の太守孫堅だった。「やあ。孫堅か。
とにかく種々な噂が生れた。 荊州の玉泉山に、普静という一老僧がいる。これはもと、汜水関の鎮国寺にいた僧で、関羽とは若い時代から知っていた師であり心友であったという。 近頃。この普静和尚が、月の白い晩、庵のなかで独り寂坐していると、 。