報恩一隻手
一
顔良の疾駆するところ、草木もみな朱に伏した。
曹軍数万騎、猛者も多いが、ひとりとして当り得る者がない。
「見よ、見よ。すでに顔良一人のために、あのさまぞ。――だれか討ち取るものはいないか」
曹操は、本陣の高所に立って声をしぼった。
「てまえに仰せつけ下さい。親友宋憲の仇、報いずにおきません」
「オオ、魏続か、行けっ」
「あわれ、敵ながら、すさまじき大将かな」と、舌打ちしておののいた。
彼ひとりのため、右翼は潰滅され、余波はもう中軍にまで及んできた。丞相旗をめぐる諸軍すべて翩翻とただおののき恐れて見えたが、その時、
と、口々に期待して、どっと生気をよみがえらせた。
時すでに、薄暮に迫っていた。
やむなく曹操は、一時、陣を十里ばかり退いて、その日の難はからくもまぬがれたが、魏続、宋憲の二大将以下おびただしい損害と不名誉をもって、ひとりの顔良に名をなさしめたことは、何としても無念でならなかった。
すると翌朝、程昱が、彼に献言した。
「日ごろ、恩をおかけ遊ばすのは、かかる時の役に立てようためではありませんか。もし関羽が顔良を討ったら、いよいよ恩をかけてご寵用なさればいいことです。もしまた顔良にも負けるくらいだったら、それこそ、思いきりがいいではありませんか」
「おお、いかにも」
歓んだのは関羽である。
「時こそ来れり」
とすぐ物具に身をかため内院へすすみ、二夫人に仔細を語って、しばしの別れを告げた。
しばしの暇をと聞くだに、二夫人はもう涙をためて、
「身を大事にしてたもれ。また、戦場へ参ったら、皇叔のお行方にも、どうか心をかけて、何ぞの手がかりでも……」と、はや錦袖で面をつつんだ。
「ゆめ、お案じあそばすな。関羽のひそかに心がけるところも、実はそこにありまする。やがてきっとご対面をおさせ申しましょうほどに。――どうぞお嘆きなく。……では、おさらば」
二
いま、曹操のまわりは、甲鎧燦爛たる諸将のすがたに埋められていた。
なにか、布陣図のようなものを囲んで謀議に鳩首しているところだった。
「ただ今、羽将軍が着陣されました」
うしろのほうで、卒の一名が高く告げた。
「なに、関羽が見えたか」
よほどうれしかったとみえる。曹操は諸将を打捨てて、自身、大股に迎えに出て行った。
「召しのお使いをうけたので、すぐ拝領のこれに乗って、快足を試してきました」
馬の鞍を叩きながら云った。
曹操はここ数日の惨敗を、ことばも飾らず彼に告げて、
「ともかく、戦場を一望してくれ給え」
と、卒に酒を持たせ、自身、先に立って山へ登った。
「なるほど」
関羽は、髯のうえに、腕をくんで、十方の野を見まわした。
野に満ち満ちている両軍の精兵は、まるで蕎麦殻をきれいに置いて、大地に陣形図を描いたように見える。
その一角と一角とが、いまや入り乱れて、揉み合っていた。折々、喊声は天をふるわし、鎗刀の光は日にかがやいて白い。どよめく度に、白紅の旗や黄緑の旆は嵐のように揺れに揺れている。
物見を連れたひとりの将が馳けあがってきた。そして、曹操の遠くにひざまずき、
息をあえぎながら叫んだ。
曹操はうめくように、
関羽は笑って、
「丞相、あなたのお眼には、そう映りますか。それがしの眼には、墳墓に並べて埋葬する犬鶏の木偶や泥人形のようにしか見えませんが」
「いや、いや、敵の士気の旺なことは、味方の比ではない。馬は龍の如く、人は虎のようだ、あの一旒の大将旗の鮮やかさが見えんか」
「ははは。あのような虚勢に向って、金の弓を張り、玉の矢をつがえるのは、むしろもったいないようなものでしょう」
「見ずや、羽将軍」
曹操は指さして、
「あのひらめく錦旛の下に、いま馬を休めて、静かに、わが陣を睨めまわしておる物々しい男こそ、つねにわが軍を悩ましぬく顔良である。なんと見るからに、万夫不当な猛将らしいではないか」
「そうですな。顔良は、背に標を立てて、自分の首を売り物に出している恰好ではありませんか」
「はて。きょうのご辺は、ちと広言が多過ぎて、いつもの謙譲な羽将軍とはちがうようだが」
「その筈です。ここは戦場ですから」
「それにしても、あまりに敵を軽んじ過ぎはしまいか」
「否……」と、身ぶるいして、関羽は凛と断言した。
「決して、広言でない証拠をいますぐお見せしましょう」
「顔良の首を予のまえに引ッさげてくるといわれるか」
「――軍中に戯言なしです」
三
時しも春。
やおら、八十二斤という彼の青龍刀は鞍上から左右の敵兵を、薙ぎはじめていた。
圧倒的な優勢を誇っていた河北軍は、
「何が来たのか?」と、にわかに崩れ立つ味方を見て疑った。
知るも知らぬも、暴風の外にはいられなかった。
関羽が通るところ、見るまに、累々の死屍が積みあげられてゆく。
その姿を「演義三国志」の原書は、こう書いている。
――香象の海をわたりて、波を開けるがごとく、大軍わかれて、当る者とてなき中を、薙ぎ払いてぞ通りける……。
顔良は、それを眺めて、
さっと、大将幡の下を離れ、電馳して駒を向けた。
――より早く、関羽も、幡を目あてに近づいていた。それと、彼のすがたを見つけていたのである。
赤兎馬の尾が高く躍った。
一閃の赤電が、物を目がけて、雷撃してゆくような勢いだった。
「顔良は、汝かっ」
それに対して、
「おっ、われこそは」
と、だけで、次を云いつづける間はなかった。
偃月の青龍刀は、ぶうっん、顔良へ落ちてきた。
その迅さと、異様な圧力の下から、身をかわすこともできなかった。
ジャン! とすさまじい金属的な音がした。鎧も甲も真二つに斬れて、噴血一丈、宙へ虹を残して、空骸はばさと地にたたきつけられていた。
関羽はその首を取って悠々駒の鞍に結びつけた。
そして忽ち、敵味方のなかを馳けてどこかへ行ってしまったが、その間、まるで戦場に人間はいないようであった。
河北勢は旗を捨て、鼓もとり落して潰乱を起していた。
もちろん機を見るに敏な曹操が戦機を察してただちに、
「すわや、今だぞ」と、総がかりを下知し、金鼓鉄弦地をふるって、攻勢に転じたからであった。
「羽将軍の勇はまことに人勇ではない。神威ともいうべきか」と、嘆賞してやまなかった。
「何の、それがし如きはまだいうに足りません。それがしの義弟に燕人張飛という者があります。これなどは大軍の中へはいって、大将軍の首を持ってくることまるで木に登って桃をとるよりたやすくいたします。顔良の首など、張飛に拾わせれば嚢の中の物を取りだすようなものでしょう」
と、答えた。
曹操は、胆を冷やした。そして左右の者へ、冗談半分にいった。
「貴様たちも覚えておけ。燕人張飛という名を、帯の端、襟の裏にも書いておけ。そういう超人的な猛者に逢ったら、ゆめゆめ軽々しく戦うなよ」