平原県
平原県(へいげんけん)とは
歴史的背景
朝廷は地方を安定させるために新たな官吏を派遣し、劉備もその一人としてこの地に任命された。
三国志での関わり
ただし、劉備の任期は長くはなく、その後も群雄の争いに身を投じることとなる。
関連する人物
劉備(平原県の県令として赴任し、治績を残した)
四川、漁陽の乱も、ようやく一時の平定を見たので、その後、劉虞は朝廷へ表をたてまつって、玄徳の勲功あることを大いにたたえた。 同時に、廟堂の公孫瓚も、 。(玄徳なる者は、前々黄賊の大乱の折にも抜群の功労があったものです)と、上聞に達したので、朝廷でも捨ておかれず、詔を下して、彼を平原県(山東省・平原)の令に封じた。 で、玄徳は、即時、一族を率いて任地の平原へさし下った。行ってみると、ここは地味豊饒で銭粮の蓄えも官倉に満ちているので、 。
その中にはまた、どんな豪強や英俊がひそんでいるかも知れなかった。 わけて、第十六鎮の部隊には、時を待っていた深淵の蛟龍がいた。 北平の太守で奮武将軍の公孫瓚がその十六鎮の軍であったが、檄に応じて、北平から一万五千余騎をひっさげて南下してくる途中、冀州の平原県(山東省・津滬線平原)のあたりまで来かかると、 。「しばらくっ、しばらくっ。」 。
「あ、この者ですか」と、それを機に一堂の諸将軍へも、改めて紹介した。「これは涿県楼桑村の生れで、それがしとは幼少からの朋友です。劉備字は玄徳といって、つい先頃までは、平原県の令を勤めていた者です。――どうかよろしく」 。 曹操は、眼をみはって、 。