曹操死す

 
 せっかく名医に会いながら、彼は名医の治療を受けなかった。のみならず華陀の言を疑って、獄へ投じてしまったのである。まさに、曹操の天寿もここに尽きるの兆というほかはない。
 ところが、典獄の呉押獄は、罪なき華陀の災難を気の毒に思って、夜具や酒を入れてやったり、拷問にかけよと命ぜられても、ひそかに庇って、ただ報告だけをしていた。
 華陀はふかく恩を感じて、ある日、人目のない折、
「呉押獄。情けはありがたいが、もし上司に知れたら、御身はたちまち免職になるであろう。わしもすでに老齢じゃ。長からぬ命といまはさとっておる。以後はどうかほうっておいて欲しい」
 と、落涙して云った。
「いやいや、先生に罪があるなら私も決して庇いませんが、自分は呉にいた頃から先生の人格と神技に深く敬慕を寄せていた者です。どうかそんなご心配なく」
「では、其許は呉の産か」
「ええ。姓も呉氏です。若い時分、医学が好きで、医者の書生となって勉強したこともありましたが、そのほうでは遂に志を得ず、司法の役人になってしまったのです」
「……ふふむ、そうか。しからば恩返しの一端に、わしが秘伝の書として家に蔵しておる医書を御身へ譲ってやろう。わしの亡き後は、その神効をことごとく学び取って、世の病者を救ってやってくれい」
「えっ。先生、それはほんとですか」
「いま、郷里の家人へ宛ててわしが書簡を書くから、金城のわしの家まで行って、その医書を貰って参るがよい。書簡の内へも書いておくが、それは青嚢の書といって、書庫の奥深くに秘して、今日まで他人に見せたことはないものじゃ」
 華陀は留守のわが家へ宛てて手紙を書いた。そしてそれを呉押獄へ授けたが、折ふし曹操の病が重態を伝えられ、宮門の内外も各役所も何となく繁忙と緊張を加えていたので、彼は華陀から貰った手紙を深く肌身に秘して十日余りつい過していた。
 すると、ある日の早暁、突然、剣を提げた七名の武士がどやどやと獄府へ来て、
「魏王のご命令である。ここを開けろ」
 と、牢番に命じて、華陀のいる獄の扉をひらかせ、中へ躍りこんだと思うと、一声、唸き声が外まで聞えた。
 呉押獄がそこへ来て見た時は、ちょうど血刀を提げた七名が、悠々と帰って行くところであった。武士らは彼のすがたをかえりみて、
「呉押獄、魏王のご命令で、ただ今、華陀は成敗したぞ、あいつめが、毎晩のように、お夢の中にあらわれるゆえ、斬殺して来いとのおいいつけに依ってだ」と云い捨てて行ってしまった。
 呉押獄はその日のうちに、役をやめて金城へ旅立った。そして華陀の家を尋ねて手紙を渡し、青嚢の書を乞いうけて郷里へ帰った。
「おれは典獄をやめて、これからは医者で立つ。しかも天下の大医になってみせる」
 久し振り、酒など飲んで、妻にも語り、その晩はわが家に寝た。
 翌朝、ふと庭面を見ると、妻は庭の落ち葉を積んで、焚火をしていた。呉押獄は、あっと驚いて、
「ばかっ。何をするか」
 と、焚火を踏み消して叫んだが、青嚢の書はもう落葉の火と共に灰になっていた。
 彼の妻は、血相を変えて怒り立つ良人へ、灰の如く、冷やかに云い返した。
「たとえあなたの身が、どんなに流行るお医者になってくれても、もしあなたの身が、この事から捕われて獄へひかれたら、それまでではありませんか。私は禍いの書を焼き捨てたのです。いくら叱られてもかまいません。良人を獄中で死なすのを、妻として見ているわけには参りませんから」
 ――ために華陀の「青嚢の書」は、遂に世に伝わらずにしまったものだということである。そして曹操の病も、その頃いよいよ重り、洛陽の雲は寒々と憂いの冬を迎えていた。
 
 
 冬の初め、ひとたび危篤を伝えられたが、十二月に入ると、曹操の容態はまた持ち直して来た。
 呉の孫権から、見舞の使節が入国した。書簡のうちに、呉はみずから臣孫権と書いて、
(魏が蜀を討つならば臣の軍隊はいつでも両川へ攻め入り、大王の一翼となって忠勤を励むでしょう)
 と、媚を示していた。
 曹操は病褥のうちであざ笑って、
「青二才の孫権が、予をして火中の栗を拾わしめようと謀りおる」
 と、つぶやいた。
 老龍ようやく淵に潜まんとする気運を観て、漢朝の廷臣や彼の侍中、尚書などの職にある一部の策動家のあいだに、この秋をもって、曹操を大魏皇帝の位にのぼせ、有るか無きにひとしい漢朝を廃して、自分たちも共に栄燿を計ろうとする運動がひそかにすすんでいた。
 ――が、曹操は、
「予はただ周の文王たればよし」
 と、いうのみで、自身が帝位に即こうとはいわなかった。けれどそれを以て言外のものを察しるならば、わが子を帝位に即かせて、自分は歴朝の太祖として崇められてゆけば満足である、という意は充分にあるらしくうかがわれた。
 またある折、司馬仲達がそっと、枕辺に伺候して、
「せっかく、呉使が来て、みずから臣と称え、魏の下風に屈して参ったものですから、この際、孫権へ何か加恩の沙汰を加え、それを天下に知らしめておくのが良策ではありますまいか」
 と、将来のために一言した。
 曹操は、至極とうなずいて、
「そう、そう、よく気づいた。孫権へ驃騎将軍、南昌侯の印綬を送ってやろう。そして荊州の牧を命ずと、発表するがよい」と、手続きを命じた。
 その晩、彼は夢を見た。
 三頭の馬が、一つの飼桶に首を入れて、餌を争い喰っているそんな夢を見たのである。朝になって、賈詡へそのことを話すと、賈詡は笑って、
「馬の夢は吉夢ではありませんか。ですから、馬の夢を見ると、民間では、お祝いをするくらいですよ」といって、しきりに気に病む病人をよろこばせた。
 いずくんぞ知らん、この一夢は、やがて曹家に代って、司馬氏が天下をとる前兆ではあった、と後になっては、附会して語る人々もあった。冬雲の凍る十二月半ばの頃から、曹操の容態はふたたび険悪に落ちた。一代の英雄児も病には克てない。彼は昼夜となく、悪夢にうなされた。洛陽の全殿大廈も震い崩るるような鳴動を時々耳に聞くのだという。そしてそのたびに、みなぎる黒雲の中から、かつて彼の命の下にあえなき最期をとげた漢朝の伏皇后や、董貴妃や、また国舅董承などの一族があらわれて、縹渺と、血にそみた白旗をひるがえして見せ、また雲の中に金鼓を鳴らし、鬨の声をあげたり、そうかと思うと、数万の男女が、声をあわせてどっと笑ったかと思うと、たちまち掻き消えてしまったりするのだという。
「みなこれ、怪異のなす業、ひとつ天下の道士をあつめて、ご祈祷を命ぜられてはいかがですか」
 と侍臣がいうと、曹操はなお苦笑して、
「日々千金を費やすとも、天命ならば一日の寿も購うことはできまい。況んや、英雄が死に臨んで、道士に祓をさせたなどと聞えては、世のもの笑いであろう。無用無用」
 と、退けて、その後で、重臣すべてを枕頭によびあつめ、
「予に、四人の子があるが、四人ともが、みな俊英秀才というわけにもゆかない。予の観るところは、平常のうちに、おまえたちにも語っておる。汝らよくわが意を酌み、忠節を継ぎ、予に仕える如く、長男の曹丕を立てて長久の計をはかれよ。よろしいか」
 おごそかに、こういうと、曹操はその瞬間に六十六年の生涯を一望に回顧したのであろう、涙雨のごとく頬をぬらし、一族群臣の嗚咽する眸の中に、忽然と最期の息を終った。――時、建安二十五年の春正月の下旬、洛陽の城下にはのような雹が降っていた。
出師の巻 第13章
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