柑子と牡丹
一
呉に年々の貢ぎ物をちかわせて来たことは、遠征魏軍にとって、何はともあれ、赫々たる大戦果といえる。まして、漢中の地が、新たに魏の版図に加えられたので、都府の百官は、曹操を尊んで、「魏王の位に即いていただこうじゃないか」と、寄々、議していた。
「そう皆がいうなら……」
と、曹操も王位に昇ろうという色を示していた。ところが諸人の議場で、尚書の崔琰が、
「ご無用になさい。そんなばかなことをおすすめするのは」と、媚態派の人々を諫めた。
諸官は怒って、
崔琰も、負けていずに、
「およそ、媚びへつらう輩ほど、主を害するものはない。むかしから君を亡ぼす者は、敵でなくて――」
「何だと」
大喧嘩になった。
「舌でも噛め」と、獄へほうり込ませた。
崔琰は、曳かれながらも、
「漢の天下を奪う逆賊は、ついに曹操ときまった」
と、大声で罵りちらした。
それを聞くと曹操は、さっそく廷尉に命じて、
「やかましいから黙らせろ」と、いいつけた。
崔琰の声はもう聞えなくなった。廷尉が棒をもって獄中で打ち殺してしまったのである。
と、いうのである。
詔に接すると、曹操は固辞して、辞退の意を上書する。帝はまた、かさねて別の一詔をおくだしになる。そこで初めて、
「聖命もだし難ければ」
と、曹操は王位をうけた。
十二旒の冠、金銀の乗用車、すべて天子の儀を倣い、出入には警蹕して、ここに彼の満悦なすがたが見られた。
嫡男の曹丕は、
(……怪しからん)と、不満に思った。曹家は自分が嗣ぐべきであるときめているからだ。中大夫の賈詡をそっと招いて、何かと相談した。
「……こうなさいませ」
曹操は、あとで考えた。
それから彼の子をみる眼がまたすこし変った。
二
「ご嫡男にはもう仁君の徳を自然に備えておいで遊ばされる」
と、もっぱら彼の評判はよかった。
「いや、そうか。人間というものは、案外、分りきっていることに分別を迷うものだ。はははは、よし、よし」
心は決したのである。その後間もなく、
――嫡子曹丕ヲ以テ我ガ王世子ト定ム
と、発表した。
冬十月。魏王宮の大土木も竣工した。その完成を祝う祝宴のため、府から諸州へ人を派して、
「各州、おのおの、特色ある土産の名物菓木珍味を、何くれとなく献上して、賀を表し候え」
と布達した。
呉の福建は、茘枝と龍眼の優品を産し、温州は柑子(蜜柑)の美味天下に有名である。魏王の令旨とあって、呉では温州柑子四十荷を、はるばる人夫に担わせて都へ送った。
舟行馬背、また人の背、四十荷の柑子は、ようやく、鄴都の途中まできた。そしてある山中で、その人夫の一隊が荷をおろして休んでいると、そこへ忽然と、片目は眇、片足はびっこという奇異な老人がやってきて話しかけた。
「ご苦労さまだな。みな疲れたろうに」
片輪の老人は、白い藤の花を冠にさし、青い色の衣を着ていた。
人夫のひとりが冗談にいった。
「爺さん。助けてくれ。これからまだ千里もあるんだ」
「よしよし」
老人は本気になって、一人の人夫の荷を担った。そして数百人のほかの仲間へ、
「おぬしらの荷は、みなわしが担ってやるぞ。わしのおる限り空身も同様じゃ。さあ続いてこい」
風のように先へ走りだした。
一荷でも失っては大変と、あとの者は、あわてて続いた。ところが、老人のいったとおり、荷を担いでも、ほんとうに身軽のようで、少しも重さを感じないので、疑い怪しまぬ者はなかった。
別れ際に、人夫の宰領が、老人に素性をたずねた。老人は、答えていう。
やがて鄴都の魏王宮に着いた。温州柑子が届いたと聞いて、曹操は久しくその甘味を忘れていたので、歓んで早速、大いなる一箇を盆から取って割った。ところが、柑子の実は空だった。怪しみながら三つ四つ取って裂いてみたが、どれもみな殻ばかりで空しい。
「呉の奉行を質してみろ。これは何故かと」
「はてな?」と、首を傾けている。同郷の友といえば少年時代のことだ。あまりに渺として思い出すに骨が折れるらしい。
ところへ、王宮の門へ、
「大王にお目にかかりたい」
「そんな筈はない。どれどれ」
と、自身で柑子を取って割ってみせた。芳香の高い果肉は彼の掌から甘い雫をこぼした。
三
「大王。まあこの柑子を一つ、召上がってごらんなさい。いま木からもいだように水々としていますから」
「まず、毒味をせよ」と、いった。
左慈は笑って、
「柑子の美味を満喫するなら、てまえは一山の柑子の樹の実を、みな喰べなければおさまりません。ねがわくは、酒と肉をいただきたいもので、柑子は口直しに後でいただきます」と、答えた。
酒五斗に、大きな羊を、丸焼きのまま銀盤に供えて喰わせた。左慈は、ぺろんと平げて、まだ物足らない顔していた。
「これは凡人でない」
と思ったか、曹操も、やや辞をやわらげて、ご辺は、仙術でも得た者ではないかとたずねた。
左慈は、答えて、
「郷を出てから、西川の嘉陵へさまよい、峨眉山中に入って、道を学ぶこと三十年。いささか雲体風身の術を悟り、身を変じ、剣を飛ばし、人の首を獲ることなど今はいと易きまでになり得ました。ところで、大王の今日を見るに、はや人臣の最高をきわめ、これ以上の人慾は、人間の地上では望むこともないでしょう。――どうじゃな、ここでひとつ、一転して身を官途から退き、この左慈の弟子となって、ともに峨眉山に入って、無限に生きる修行をなさらんか」
「……ふむ。それも一理ある言だな。しかし、まだ天下はほんとに治まっていないし、朝廷におかれても、この曹操にかわって、扶翼し奉る人がおらぬ。朝野の安危を見とどけずに、身ひとつ閑地に楽しむのは、曹操の心にそむくことだ」
見る見るうちに曹操の顔は激色に焦きただれた。老来、これほど露骨に青すじを立てたことは珍しい。
「この上は眠らせるな」
鉄の枷で、首をはめて両の足首を鎖で縛り、そして牢屋の柱に立縛りに立たせておいた。
ところが、すこし時経つと、すぐこころよげな高鼾が洩れてくる。怪しんで覗いてみると、鎖も鉄の枷もこなごなに解きすて、左慈は、悠々と身を横にしていた。
曹操は、聞いて、
「いったい、汝は魔か人間か」
魏王宮落成の大宴の日が来た。国々の美味、山海の珍味、調わざるなく、参来の武人百官は、雲か虹のごとく、魏王宮の一殿を埋めた。
ときに、高い木履をはいて、藤の花を冠にさした乞食のような老人が、場所もあろうに、宴の中へ突忽として立ち、
「やあ、お揃いだね」
と、なれなれしく諸官を見まわした。
曹操は、きょうこそこの曲者を、困らしてやろうと考え、また客の座興にもしてやろうと、
「こら、招かざる客。汝は、きょうの賀に、何を献じたか」
と、いった。左慈は、直ちに、
「されば、季節は冬、百味の珍饌あるも、一花の薫色もないのは、淋しくありませんか。左慈は、卓の花を献じようと思います」
「花なら牡丹が欲しい。即座に、そこの大花瓶に、牡丹を咲かせてみよ」
「てまえも、そう思っていました」
左慈は、ぷっと、唇から水を噴いた。嬋娟たる牡丹の大輪が、とたんに花瓶の口にゆらゆら咲いた。