牡丹亭
一
「呉の孫堅が討たれた」
耳から耳へ。
董卓は、手を打って、
「わが病の一つは、これで除かれたというものだ。彼の嫡男孫策はまだ幼年だし……」
と、独りよろこぶこと限りなかったとある。
その頃、彼の奢りは、いよいよ募って、絶頂にまで昇ったかの観がある。
位は人臣をきわめてなおあきたらず、太政太師と称していたが、近頃は自ら尚父とも号していた。
天子の儀仗さえ、尚父の出入の耀かしさには、見劣りがされた。
みな彼の手足であり、眼であり、耳であった。
そのほか、彼につながる一門の長幼縁者は端にいたるまで、みな金紫の栄爵にあずかって、わが世の春に酔っていた。
郿塢――
そこは、長安より百余里の郊外で、山紫水明の地だった。董卓は、地を卜して、王城をもしのぐ大築城を営み、百門の内には金玉の殿舎楼台を建てつらね、ここに二十年の兵糧を貯え、十五から二十歳ぐらいまでの美女八百余人を選んで後宮に入れ、天下の重宝を山のごとく集めた。
そして、憚りもなく、常にいうことには、
「もし、わが事が成就すれば、天下を取るであろう。事成らざる時は、この郿塢城に在って、悠々老いを養うのみだ」――と。
明らかに、大逆の言だ。
けれど、こういう威勢に対しては、誰もそれをそれという者もない。
沿道百余里、塵をもおそれ、砂を掃き、幕をひき、民家は炊煙も断って、ただただ彼の車蓋の珠簾とおびただしい兵馬鉄槍が事なく通過するのみを祷った。
「太師。お召しですか」
天文官の一員は彼によばれて、ひざまずいた。
その日、朝廷の宴楽台に、酒宴のあるという少し前であった。
「なにか変ったことはないか」
董卓の訊ねに、
「そういえば昨夜、一陣の黒気が立って、月白の中空をつらぬきました。なにか、諸公のうちに、凶気を抱く者があるかと思われます」
「そうだろう」
「なにかお心あたりがおありでございますか」
すると董卓は、はったと睨みつけて云った。
「そちらの知ったことではない。我より問われて初めて答えをなすなど怠慢至極だ。天文官は、絶えず天文を按じ、凶事の来らぬうちに我へ告げねば、なんの役に立つかっ」
「はっ。恐れ入りましてございます」
天文官は、自分の首の根から黒気の立たないうちに、蒼くなってあたふた退出した。
やがて、時刻となると、公卿百官は、宴に蝟集した。すると、酒もたけなわの頃、どこからか、呂布があわただしく帰って来て、
「失礼します」と、董卓のそばへ行って、その耳元へなにやらささやいた。
満座は皆、杯もわすれて、その二人へ、神経をとがらしていた。
「逃がすなよ」
呂布は、一礼して、そこを離れたと見ると、無気味な眼を光らして、百官のあいだを、のそのそと歩いて来た。
二
「おい。ちょっと起て」
呂布の腕が伸びた。
酒宴の上席のほうにいた司空張温の髻を、いきなりひッ掴んだのである。
「あッ、な、なにを」
張温の席が鳴った。
満座、色醒めて、どうなることかと見ているまに、
「やかましい」
呂布は、その怪力で、鳩でも掴むように、無造作に、彼の身を堂の外へ持って行ってしまった。
しばらくすると、一人の料理人が、大きな盤に、異様な料理を捧げて来て、真ん中の卓においた。
董卓は、笑いながら、
「呂布は、いかがした」と呼んだ。
呂布は、悠々、後から姿をあらわして、彼の側に侍立した。
「御用は」
「いや、そちの料理が、少し新鮮すぎたので、諸卿みな杯を休めてしまった。安心して飲めとお前からいってやれ」
呂布は満座の蒼白い顔に向って、傲然と、演説した。
「諸公。もう今日の余興はすみました。杯をお挙げなさい。おそらく張温のほかに、それがしの料理をわずらわすようなお方はこの中にはおらんでしょう。――おらない筈と信じる」
彼が、結ぶと、董卓もまた、その肥満した体躯を、ゆらりと上げて云った。
「張温を誅したのは、ゆえなきことではない。彼は、予に叛いて、南陽の袁術と、ひそかに通謀したからだ。天罰といおうか、袁術の使いが密書を持って、過って呂布の家へそれを届けてきたのじゃ。――で彼の三族も、今し方、残らず刑に処し終った。汝ら朝臣も、このよい実例を、しかと見ておくがよい」
宴は、早めに終った。
さすが長夜の宴もなお足らないとする百官も、この日は皆、匆々に立ち戻り、一人として、酔った顔も見えなかった。
「ああ。……ああ」
歎息ばかり洩らしていた。
館に帰っても、憤念のつかえと、不快な懊悩は去らなかった。
折ふし、宵月が出たので、彼は気をあらためようと、杖をひいて、後園を歩いてみたが、なお、胸のつかえがとれないので、茶蘼の花の乱れ咲いている池畔へかがみこんで、きょうの酒をみな吐いてしまった。
そして、冷たい額に手をあてながら、しばらく月を仰ぎ、瞑目していると、どこからか春雨の咽ぶがようなすすり泣きの声がふと聞えた。
「……誰か?」
王允は見まわした。
池の彼方に、水へ臨んでいる牡丹亭がある。月は廂に映じ窓にはかすかな灯が揺れている。
「貂蝉ではないか。……なにをひとりで泣いているのだ」
近づいて、彼は、そっと声をかけた。
三
楽女とは、高官の邸に飼われて、賓客のあるごとに、宴にはべって歌舞吹弾する賤女をいう。
「貂蝉、風邪をひくといけないぞよ。……さ、おだまり、涙をお拭き。おまえも妙齢となったから、月を見ても花を見ても、泣きたくなるものとみえる。おまえくらいな妙齢は、羨ましいものだなあ」
「……なにを仰っしゃいます。そんな浮いた心で、貂蝉は悲しんでいるのではございません」
「では、なんで泣いていたのか」
「大人がお可哀そうでならないから……つい泣いてしまったのです」
「わしが可哀そうで……?」
「ほんとに、お可哀そうだと思います」
「おまえに……おまえのような女子にも、それが分るか」
「分らないでどうしましょう……。そのおやつれよう。お髪も……めっきり白くなって」
「むむう」
王允も、ほろりと、涙をながした。――泣くのをなだめていた彼のほうが、滂沱として、止まらない涙に当惑した。
「なにをいう。そ……そんなことはないよ。おまえの取りこし苦労じゃよ」
「いいえ、おかくしなさいますな。嬰児の時から、大人のお家に養われてきた私です。この頃の朝夕のご様子、いつも笑ったことのないお顔……。そして時折、ふかい嘆息を遊ばします。……もし」
貂蝉は、彼の老いたる手に、瞼を押しあてて云った。
「賤しい楽女のわたくし、お疑い遊ばすのも当り前でございますが、どうか、お胸の悩みを、打明けて下さいまし。……いいえ、それでは、逆しまでした。大人のお胸を訊く前に、わたくしの本心から申さねばなりません。――私は常々、大人のご恩を忘れたことはないのです。十八の年まで、実の親も及ばないほど愛して下さいました。歌吹音楽のほか、人なみの学問から女の諸芸、学び得ないことはなに一つありませんでした。――みんな、あなた様のお情けにちりばめられた身の宝です。……これを、このご恩を、どうしてお酬いしたらよいか、貂蝉は、この唇や涙だけでは、それを申すにも足りません」
「…………」
「大人。……仰っしゃって下さいませ。おそらく、あなたのお胸は、国家の大事を悩んでいらっしゃるのでございましょう。今の長安の有様を、憂い患らっておいでなのでございましょう」
「貂蝉」
急に涙を払って、王允は思わず、痛いほど彼女の手をにぎりしめた。
「私のこんな言葉だけで、大人の深いお悩みは、どうしてとれましょう。――というて、男の身ならぬ貂蝉では、なんのお役にも立ちますまいし……。もし私が男であるならば、あなた様のために、生命を捨ててお酬いすることもできましょうに」
「いや、できる!」
王允は、思わず、満身の声でいってしまった。
杖をもって、大地を打ち、
「――ああ、知らなんだ。誰かまた知ろう。花園のうちに、回天の名珠をちりばめた誅悪の利剣がひそんでいようとは」
こういうと、王允は、彼女の手を取らんばかりに誘って、画閣の一室へ伴い、堂中に坐らせてその姿へ頓首再拝した。
貂蝉は、驚いて、
「大人。何をなさいますか、もったいない」
あわてて降ろうとすると、王允は、その裳を抑えて云った。
四
貂蝉は、さわぐ色もなく、すぐ答えた。
「はい。大人のおたのみなら、いつでもこの生命は捧げます」
王允は、座を正して、
「では、おまえの真心を見込んで頼みたいことがあるが」
「なんですか」
「董卓を殺さねばならん」
「…………」
「彼を除かなければ、漢室の天子はあってもないのと同じだ」
「…………」
「百姓万民の塗炭の苦しみも永劫に救われはしない……貂蝉」
「はい」
「おまえも薄々は、今の朝廷の累卵の危うさや、諸民の怨嗟は、聞いてもいるだろう」
「ええ」
貂蝉は、目瞬きもせず、彼の吐きだす熱い言々を聞き入っていた。
「――が、董卓を殺そうとして、効を奏した者は、きょうまで一人としてない。かえって皆、彼のために殺し尽されているのだ」
「…………」
「…………」
「それを殺さんには……。天下の精兵を以てしても足らない。……貂蝉。ただ、おまえのその腕のみがなし得る」
「……どうして、私に?」
「…………」
さすがに、貂蝉の顔は、そう聞くと、梨の花みたいに蒼白く冴えた。
「わしの見るところでは、呂布も董卓も、共に色に溺れ酒に耽る荒淫の性だ。――おまえを見て心を動かさないはずはない。呂布の上に董卓あり、董卓の側に呂布のついているうちは、到底、彼らを亡ぼすことは難しい。まずそうして、二人を割き、二人を争わせることが、彼らを滅亡へひき入れる第一の策だが……貂蝉、おまえはその体を犠牲にささげてくれるか」
「いたします」
きっぱりいった。
そしてまた、「もし、仕損じたら、わたしは、笑って白刃の中に死にます。世々ふたたび人間の身をうけては生れてきません」と、覚悟のほどを示した。
数日の後。
呂布は、驚喜した。
王允は、あらかじめ、彼が必ず答礼に来ることを察していたので、歓待の準備に手ぬかりはなかった。