草喰わぬ馬
一
「自分はかねてより将軍を慕って、将軍の娘をわが子息へ迎えようとすらしたことがある。何で足下はあの時わが懇志をしりぞけたか」
「また将軍は、常に天下無敵の人と思っていたが、なんで今日、わが軍の手に捕われたのか。われに降って、呉に仕えよと、天がご辺に諭しているものと思われる」
関羽はしずかに眸を向けて、
「思いあがるを止めよ、碧眼の小児、紫髯の鼠輩。まず聞け、真の将のことばを」
と、容を正した。
「劉皇叔とこの方とは、桃園に義をむすんで、天下の清掃を志し、以来百戦の中にも、百難のあいだにも、疑うとか反くなどということは、夢寐にも知らぬ仲である。今日、過って呉の計に墜ち、たとえ一命を失うとも、九泉の下、なお桃園の誓いあり、九天の上、なお関羽の霊はある。汝ら呉の逆賊どもを亡ぼさずにおくべきか。降伏せよなどとは笑止笑止。はや首を打て」
それきり口をつぐんで再びものをいわない。さながら巌を前に置いているようだった。孫権は左右を顧みて、
「一代の英雄をわしは惜しむ。何とかならんか」
と、ささやいた。
主簿の左咸が意見した。
「おやめなさい。おやめなさい。むかし曹操もこの人を得て、三日に小宴、五日に大宴を催し、栄誉には寿亭侯の爵を与え、煩悩には十人の美女を贈り、日夜、機嫌をとって、引き留めたものでしたが、ついに曹操の下に留まらず、五関の大将を斬って、玄徳の側へ帰ってしまった例もあるではありませんか」
「…………」
「…………」
孫権はなお唇をむすんでしばらく鼻腔で息をしていたが、やがて席を突っ立つや否や、われにも覚えぬような大声でいった。
「斬れっ。斬るのだっ。――それっ関羽を押し出せ」
武士はかたまり合って関羽を陣庭広場までひき立てた。そして養子関平と並べてその首を打ち落した。時、建安二十四年の十月で、この日、晩秋の雲はひくく麦城の野をおおい、雨とも霧ともつかぬ濛気が冷やかにたちこめた。
「……これはいかん。どうしたのだろう?」
四、五日すると、彼はひどく悄気てしまった。
なぜならば拝領の赤兎馬は、関羽の死んだその日から草を喰わなくなったからである。秋日の下に曳きだして、いかに香わしい飼料をやっても、水辺に覗かせても、首を振っては悲しげに麦城のほうへ向っていななくのみであった。麦城にはまだ百余人が籠城していた。けれど、その後、呉軍が迫ると、すでに王甫も関羽の死を知ったとみえ矢倉の上から飛び降りて死んだ。また関羽の片腕といわれた周倉も自ら首を刎ねて憤死した。
二
関羽の死後にはいろいろな不思議が伝えられた。彼の武徳と民望が、それを深く惜しみ嘆く庶民の口々に醸されて、いつか神秘を加え説話をつくり、それが巷に語られるのであろう。とにかく種々な噂が生れた。
近頃。この普静和尚が、月の白い晩、庵のなかで独り寂坐していると、
「普静普静」
と空中から人の声がして、
還我頭来。還我頭来。
と二度まで明らかに聞えた。
すると空中の声は、いとも無念そうに、
「呂蒙の奸計に陥ちて、呉の殺に遭えり。和尚、わが首を求めて、わが霊を震わしめよ」
と答えた。
普静は起って庭に出で、
「将軍、何ぞそれ迷うの愚を悟らざるか。将軍が今日まで歩み経てきた山野のあとには将軍と恨みをひとしゅうする白骨が累々とあるではないか。桃園の事はすでに終る。いまは瞑して九泉に安んじて可なりである。喝!」
と、払子で月を搏つと、たちまち関羽の影は霧のように消え失せてしまった。
しかしその後も、月の夜、雨の夜、庵を叩いて、
「師の坊、高教を垂れよ」
とたびたび人の声がするというので、玉泉山の郷人たちは相談して一宇の廟を建て、関羽の霊をなぐさめたという。
また。
「このたび、荊州を得たのはみな汝の深慮遠謀に依るものだ。汝がすがたの見えないのは淋しい。予は汝の来るまで杯をとらずに待つであろう」と、云い送った。
「周瑜は赤壁に曹操を破ったが不幸早く世を去った。魯粛も帝王の大略を蔵していたが荊州を取るには到らなかった。けれどこの二人はたしかに予の半生中に会った快傑であった。ところが今日、荊州はわが物となり、しかもわが呂蒙は眼前になお健在だ。こんな愉快なことはない。まさに御身は周瑜、魯粛にも勝るわが呉の至宝である」と、その杯を彼にとらせた。
「碧眼の小児、紫髯の鼠賊、思いあがるを止めよ」
と大喝して、なお何か罵りだした。
満座の人々は総立ちになって、彼のまわりに集まり、ほかへ連れて行こうとしたが、呂蒙は怖ろしい力で振り放ち、愕き騒ぐ人々を踏みつけて、ついに上座を奪ってしまった。そして物の怪に憑かれた眼を怒らして、
「われ、戦場を縦横すること三十年、一旦、汝らの詐りに落ちて命を失うとも、かならず霊は蜀軍の上にあって呉を亡ぼさずにはおかん、かくいう我はすなわり漢の寿亭侯関羽である」
と、吠ゆるが如く云った。