中牟
中牟(ちゅうぼう)とは
歴史
三国志における扱い
董卓が洛陽を焼き払った後、群雄が各地で割拠した時代に、中牟は曹操の行軍経路として登場する。また、袁術や劉備なども河南に勢力を伸ばそうとする中で言及される。吉川英治『三国志』においても洛陽近郊の地理を示す文脈で登場し、中原の覇権を争う舞台の一つとして描かれている。
関連する人物
地理的特徴
その迅速を競って。 一方―― 。 洛陽の都をあとに、黄馬に鞭をつづけ、日夜をわかたず、南へ南へと風の如く逃げてきた曹操は、早くも中牟県(河南省中牟・開封―鄭州の中間)――の附近までかかっていた。「待てっ」 。「馬をおりろ」 。
「陳宮。 ……。では以前、中牟県の関門を守り、曹操が都落ちをした時、彼を助けるため、官を捨てて奔った県令ではないのか」 。「そうです」 。「いや、それはお見それした。
時の経過に従って起るその皮肉な結果を、俳優自身も知らずに演じているのが、人生の舞台である。 陳宮と曹操のあいだなども、その一例といえよう。そもそも、陳宮の今日の運命は、そのむかし、彼が中牟の県令として関門を守っていた時、捕えた曹操を救けたことから発足している。 当時、曹操は、まだ白面の一志士であって、洛陽の中央政府の一小吏に過ぎなかったが、董卓を暗殺しようとして果たさず、都を脱出して、天下に身の置き所もなかったお尋ね者の境遇だった。 それが、今は。