山陽
山陽(さんよう)とは
歴史
三国志における扱い
後漢末に曹操が兗州から勢力を広げていく過程で、山陽はその支配圏に組み込まれた。また、各地で蜂起する黄巾賊の討伐や、袁術・袁紹らとの戦いにおいても地理的な拠点として言及される。吉川英治『三国志』でも、曹操の行軍ルートや版図拡大の文脈で地名として登場する。
関連する人物
と、いう頼もしい者が現れてきたりした。 もっとも、その兄弟は、曹家がまだ譙郡にいた頃、曹家に養われて、養子となっていた者であるから、真っ先に馳せつけて来るのは当然であったが、そのほか毎日、軍簿に到着をしるす者は、枚挙にいとまがないくらいであった。 山陽鉅鹿の人で李典、字は曼成という者だの――徐州の刺史陶謙だの――西涼の太守馬騰だの、北平太守の公孫瓚だの――北海の太守孔融なんどという大物が、おのおの何千、何万騎という軍を引いて、呼応して来た。 彼の帷幕にはまた、曹仁、曹洪のふたりの兄弟も参じ...
ここにお気のどくなのは献帝である。魏帝の使いは仮借なく居を訪れて、 。「今上の仁慈、汝をころすに忍び給わず、封じて山陽公となす。即日、山陽に赴き、ふたたび都へ入るなかれ」 。 という刻薄な沙汰をつたえた。
「私に仰せつけ下さい」 。 と、進んでその任に当ろうという者が現れた。山陽の人、満寵字を伯寧という者だ。「満寵か。――よかろう。
「その説に自分も同感である。自分をもっていわせれば、さらに三つの不利がある」 。 と、続いて山陽高平の人、王粲字は仲宣が起って戦に入る三害を力説した。 一、中国百万の軍は、朝廷をひかえ、抗するものは、違勅の汚名をうける。 一、曹操は威雷電のごとく、その強馬精兵は久しく名あるところ。