并州
并州(へいしゅう)とは
生涯や人物ではなく地域なので、以下は地誌的な説明になる。
土地の歴史
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「咎められるな」 。 人民は恟々と、道をひらいて避けた。 その頃、并州の丁原、河内の太守王匡、東郡の喬瑁などと諸将がおくればせに先の詔書に依って上洛して来たが、董卓軍の有様を見て皆、なすことを知らなかった。 後軍の校尉鮑信は、ある時、袁紹に向ってそっとささやいた。「どうかしなければいかんでしょう。
こういう政府が、長く人民に平和と秩序を布いてゆけるわけはない。 果たして。 それから程なく、西涼の太守馬騰と、并州の刺史韓遂のふたりは、十余万の大軍をあわせて、「朝廟の賊を掃討せん」と号して長安へ押しよせて来た。 李傕たちの四将は、「どうしたものか」と、謀士賈詡に計った。 賈詡は、一策を立てて、消極戦術をすすめた。
「ご要求の件、承知した」 。 と、曹操から答えて、糧米、馬匹、そのほか、おびただしい軍需品をととのえて渡した。そして、使者には、盛大な宴を設けてねぎらい、また、その帰るに際しては特に、朝廷に奏請して、袁紹を大将軍太尉にすすめ、冀州、青州、幽州、并州の四州をあわせて領さるべし――と云い送った。
かねてのこと、成就の時はきましたぞ。荊州の劉表、河北の袁紹とむすび、五十万の軍勢をおこす。また西涼の馬騰、并州の韓遂、徐州の玄徳なんども、各地から心をあわせて一せいに起ち、その兵七十万と聞えわたる。――曹操その故におどろきあわてて諸方へ討手をわかち、ために、洛内は今、まったく手薄となりました。相府、都市の警兵をあわせても、千人に足りますまい。
「まず、曹操を打倒せよ」 。 令に依って。 冀州、青州、并州、幽州、など河北の大軍五十万は官渡(河南省・開封附近)の戦場へ殺到した。 袁紹も、曠のいでたちを着飾って、冀北城からいざ出陣と馬をひかせると、重臣の田豊が、 。「かくの如く、内を虚にして、みだりにお逸りあっては、かならず大禍を招きます。
と、気まずい顔いろながらも、反省して、考え直しているふうであった。 すると、それから数日の間に。 并州にいる甥の高幹が、官渡の大敗と聞いて、軍勢五万をひきいて上ってきたところへ、長男の袁譚も、青州から五万余騎をととのえて駈けつけ、次男袁煕もまた前後して、六万の大兵をひっさげ、城外に着いて、野営を布いた。 ために冀州城下の内外は、それらの味方の旗で埋められたので、一時は気を落していた袁紹も大いに歓んで、 。「やはり何かの場合には、気づよいものは子どもらや肉親である。
冀州の動揺はいうまでもない。「ここまで、敵を入れては、勝ち目はないぞ」 。 と、青州、幽州、并州の軍馬は、諸道から黎陽へ出て、防戦に努めた。 けれど曹軍の怒濤は、大河を決するように、いたる所で北国勢を撃破し、駸々と冀州の領土へ蝕いこんで来た。 袁譚、袁煕、袁尚などの若殿輩も、めいめい手痛い敗北を負って、続々、冀州へ逃げもどって来たので、本城の混乱はいうまでもない。