郭図(かくと)とは 後漢末の人物で、袁紹に仕えた謀臣。字は公則(こうそく)。計略を用いるが短慮な面があり、袁紹陣営の失敗に関わったことで知られる。 生涯 袁紹の配下として官渡の戦いなどに参画。智謀をもって献策すること...
許収(きょしゅう)とは 後漢末の人物で、袁紹に仕えた謀臣の一人。史書『三国志』にも名が見えるが、詳しい事績はあまり多く伝わっていない。 生涯 河北の士大夫として袁紹に仕え、同僚の田豊や沮授らとともに参謀の列に加わった...
沮授(そじゅ)とは 後漢末の人物で、袁紹に仕えた謀臣。字は公与(こうよ)。冷静沈着で大局を見通す知将として知られる。 生涯 冀州出身の名士で、袁紹に仕えてその参謀となった。初めから曹操の台頭を警戒し、官渡の戦いの前に...
顔良(がんりょう)とは 後漢末の武将で、袁紹に仕えた猛将。文醜と並んで袁紹軍の双璧と称された。 生涯 河北の袁紹配下で勇名を馳せ、武勇を誇った。官渡の戦いの前哨戦である白馬の戦いでは先鋒を任されるが、曹操軍の関羽に討...
田豊(でんほう)とは 後漢末の人物で、袁紹に仕えた謀臣。字は元皓(げんこう)。忠義に厚く、直言を恐れない性格で知られる。 生涯 河北の名士で、袁紹に仕えてその参謀となった。冷静な判断力を持ち、官渡の戦いにおいても正し...
曹洪(そうこう)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の曹操に仕えた重臣。字は子廉(しれん)。曹操の従弟であり、曹仁の兄弟と並んで曹氏一族を代表する勇将の一人。 生涯 曹操の挙兵当初から従い、常に軍の中核を担っ...
李典(りてん)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の曹操に仕えた将軍。字は曼成(まんせい)。温厚で謙虚な性格の持ち主であり、知勇を兼ね備えた人物として評価される。 生涯 兗州東郡の出身で、曹操の挙兵に従った。...
楽進(がくしん)とは 後漢末から三国時代にかけての武将で、魏の曹操に仕えた将軍。字は文謙(ぶんけん)。身長は低かったが、勇猛果敢な戦ぶりで知られる。 生涯 若い頃は地方の吏(役人)を務めていたが、曹操にその武勇を見込...
荀攸(じゅんゆう)とは 荀攸は後漢末から三国時代初期にかけての政治家・軍師で、曹操の重要な参謀の一人。字は公達(こうたつ)。名門荀氏の出で、従兄弟の荀彧とともに曹操を支えた。 生涯 荀攸は潁川の出身で、若くして聡明さ...
袁紹(えんしょう)とは 袁紹は後漢末期の群雄の一人で、冀州を支配し、河北四州を制圧した大勢力の覇者。名門袁氏の出であり、官僚としても武将としても高名であったが、曹操との争いに敗れて滅びた。 生涯 袁紹は汝南汝陽の出身...
曹操孟徳(そうそう もうとく)とは 曹操は後漢末から三国時代初期にかけて活躍した群雄で、魏の基礎を築いた人物である。字は孟徳(もうとく)。その才能と多面性から「治世の能臣、乱世の奸雄」と評される。 魏王(ぎおう)とは ...
一 玄徳が、その一族と共に、劉表を頼って、荊州へ赴いたのは、建安六年の秋九月であった。 劉表は郭外三十里まで出迎え、互いに疎遠の情をのべてから、 「この後は、長く唇歯の好誼をふかめ、共々、漢室の宗親たる範を天下に垂れん」...
一 孔明の使命はまず成功したといってよい。呉の出師は思いどおり実現された。孔明はあらためて孫権に暇を告げ、その日、すこし遅れて一艘の軍船に身を託していた。 同舟の人々は、みな前線におもむく将士である。中に、程普、魯粛の二将も...
一 粛正の嵐、血の清掃もひとまず済んだ。腥風都下を払って、ほっとしたのは、曹操よりも、民衆であったろう。 曹操は、何事もなかったような顔をしている。かれの胸には、もう昨日の苦味も酸味もない。明日への百計にふけるばかりだった。...
一 顔良が討たれたので、顔良の司令下にあった軍隊は支離滅裂、潰走をつづけた。 後陣の支援によって、からくも頽勢をくい止めたものの、ために袁紹の本陣も、少なからぬ動揺をうけた。 「いったい、わが顔良ほどな豪傑を、たやすく討...
一 呉を興した英主孫策を失って、呉は一たん喪色の底に沈んだが、そのため却って、若い孫権を中心に輔佐の人材があつまり、国防内政ともに、いちじるしく強化された。 国策の大方針として、まず河北の袁紹とは絶縁することになった。 ...
一 関羽が、顔良を討ってから、曹操が彼を重んじることも、また昨日の比ではない。 「何としても、関羽の身をわが帷幕から離すことはできない」 いよいよ誓って、彼の勲功を帝に奏し、わざわざ朝廷の鋳工に封侯の印を鋳させた。 ...
一 槍の先に、何やら白い布をくくりつけ、それを振りながらまっしぐらに駈けてくる敵将を見、曹操の兵は、 「待てっ、何者だ」と、たちまち捕えて、姓名や目的を詰問した。 「わしは、曹丞相の旧友だ。南陽の許攸といえば、きっと覚えて...
一 袁紹はわずか八百騎ほどの味方に守られて、辛くも黎陽まで逃げのびてきたが、味方の聯絡はズタズタに断ち切られてしまい、これから西すべきか東すべきか、その方途にさえ迷ってしまった。 黎山の麓に寝た夜の明け方ごろである。 ...
黄河(こうが)とはは三国志に深く関係する地理用語で、中国の重要な大河のひとつです。 【黄河(こうが)について】 ・その土地の歴史 黄河は中国北部を東西に貫く大河で、中国文明発祥の地の一つとされています。「中国の母なる川」とも...
一 その頃、北海(山東省・寿光県)の太守孔融は、将軍に任命されて、都に逗留していたが、河北の大軍が、黎陽まで進出してきたと聞いて、すぐさま相府に馳けつけ、曹操に謁して、こう直言した。 「袁紹とは決して軽々しく戦えません。多少は...