桃園終春
一
斗酒を傾けてもなお飽かない張飛であった。こめかみの筋を太らせて、顔ばかりか眼の内まで朱くして、勅使に唾を飛ばして云った。
「いったい、朝廷の臣ばかりでなく、孔明なども実に腑抜けの旗頭だ。聞けば、孔明はこんど皇帝の補佐たる丞相の任についたそうだが、彼を始め、蜀朝の文武は、栄爵に甘んじて、もう戦争の苦しみなどは、ひそかに厭っておるんじゃないか。……実に、嘆かわしい小人どもではある。不肖、張飛の如きにまで、今日、有難い恩爵を賜わって、不平どころか、有難いと思うことは人一倍も感じておるが、それにつけても、関羽が世にいないことを思うと、呉に対して、いよいよ報復の軍を誓わずにおれん。……無念だ、残念だ、呉を亡ぼさぬうちに、自分たちのみが、こんな恩命に温まって無事泰平に暮しておるのは、相済まなくて仕方がない。地下の関羽が、どんなに歯ぎしりしているかと思うと……」
張飛は哭きだした。
酔いと感情が、極点に達すると、彼はいつも、悲憤して哭くのが癖であった。
けれど、彼のことばは、決して一場の酔言ではなく、そうした気持は、常に抱いているものに違いない。
その証拠には、やがて勅使が帰ると、すぐその後で、蜀の蹶起をうながさんと、彼も直ちに成都へ上っている。
ふかく桃園の盟を守って、ともに誓っていることは、皇帝玄徳といえども今も同じであった。身の老齢を思い、一たん人生の晩節を悟って、
(我れ呉と倶に生きず)と、宣言してからの彼は、以来毎日のように練兵場へ行幸して、みずから兵を閲し、軍馬を訓練し、ひたすらその日を期していた。
けれど、孔明を始め、社稷の将来を思う文武の百官は、
(陛下には、まだ九五の御位について日も浅いのに、ふたたびここで大戦を起すなどは、決して、宗廟の政を重んずるゆえんでない)と、反対の説が多く、ために、玄徳も心ならずも、出兵を遷延している状態であった。
その日も玄徳は朝廷を出て、練兵場の演武堂におると聞き、彼は禁門に入るまえにすぐそこへ行って帝に拝謁した。
その時張飛は、玉座の下に拝伏するや、帝の御足を抱いて、声を放って哭いたということである。
「よく参った。関羽はすでに世に亡く、桃園に会した義兄弟も今はそちとただ二人ぞ。体は壮健か」と濃やかに彼の悲情を慰めた。
張飛が、拳を握って、
「陛下には、なおその昔の盟をお忘れありませんか。不肖も、関羽の仇を報ぜぬうちは、いかなる富貴も栄爵も少しも心の楽しみとはなりません」
と涙を払っていうと、玄徳もともに悲涙をたたえて、
「朕の心も同じである。いつの日にか必ず汝と共に呉へ攻め行くであろう」と、いった。
張飛は雀躍りして、
「陛下にそのご勇気があるならば、いつの日かなどといっていないで、すぐにも張飛はお供いたしたいと思います。はや平和の日になれて、ひたすら小我の安逸へ奔ろうとする文官や一部の武人にさえぎられていたら、生あるうちに、この恨みを胸からそそぐ日はないでしょう」
「然なり、然なり」
「直ちに、そちは軍備して閬中から南へ出でよ。朕、また大軍をひきいて、江州に出で、汝と合し、呉を伐つであろう」
張飛は、頭を叩いて歓び、階を跳び下りて、すぐ閬中へ帰って行った。
けれども、帝の軍備には、たちまち内部の反対が燃え、学士秦宓のごときは、直言して、その非を諫奏した。
頑として、玄徳は耳もかさなかった。彼の温和で保守的な性格からいえば、晩年のこの挙はまったく別人のような観がある。
二
孔明もまた、表を奉った。
――呉を伐つもよいが、いまはその時でありません。
と、極力諫奏したが、ついに玄徳を思い止まらすことはできなかった。
このうちには、かねて南蛮から援軍に借りうけておいた赤髪黒奴の蛮夷隊もまじっていた。
――ところが。
ここに蜀にとって悲しむべき一事件が突発した。それは張飛の一身に起った不測の災難である。
あれから閬中の自領へ急いで帰った張飛は、すでに呉を呑むごとき気概で、陣の将士に、
「このたび討呉の一戦は、義兄関羽の弔い合戦だ。兵船の幕から武具、旗、甲、戦袍の類まで、すべて白となし、白旗白袍の軍装で出向こうと思う。ついては、おまえ達が奉仕して、三日のあいだにそれを調えろ。四日の早天には閬中を出発するから、違背なくいたせよ」と、いいつけた。
「……は」とはいったが、ふたりは眼をまろくした。無理な日限である。どう考えたってできるわけではない、とすぐ思ったからだった。
「少なくも十日のご猶予を下さい。とうてい、そんな短時日には、できるわけがございません」
と、事情を訴えた。
「なに、できない」
張飛は、酒へ火が落ちたように、かっと青筋を立てた。側には、参謀たちもいて、すでに作戦にかかり、彼の気もちは、もう戦場にある日と変りないものになっていたのである。
「出陣を前に、便々と十日も猶予しておられようか。わが命に違反なす奴、懲らしめてやれ」
武士に命じて、ふたりを縛り、陣前の大樹にくくりつけた。
けれども二人は、やがて悲鳴の中から、罪を謝してさけんだ。
「おゆるし下さい。やります。きっと三日のうちに、ご用命の物を調達いたします」
至極単純な張飛は、
「それみろ、やればできるくせに。放してやるから、必死になって、調えろ」
と、縄を解いてやった。
その夜、彼は諸将と共に、酒を飲んで眠った。平常もありがちなことだが、その晩はわけても大酔したらしく、帳中へはいると床のうえに、鼾をかいて寝てしまったのである。
すると、二更の頃。
「うぬ!」
と一声、やにわに寝姿へおどりかかって張飛の寝首を掻いてしまった。
首をさげて、飛鳥の如く、外の闇へ走ったかと思うと、閬江のほとりに待たせてあった一船へ跳びこみ、一家一族数十人とともに、流れを下って、ついに呉の国へ奔ってしまった。
実に惜しむべきは、張飛の死であった。好漢惜しむらくは性情粗であり短慮であった。まだまだ彼の勇は蜀のために用うる日は多かったのに、桃園の花燃ゆる日から始まって、ここにその人生を終った。年五十五であったという。