燈花占
一
「何としても、関羽の身をわが帷幕から離すことはできない」
いよいよ誓って、彼の勲功を帝に奏し、わざわざ朝廷の鋳工に封侯の印を鋳させた。
「……これを、それがしに賜わるのですか」
関羽は一応、恩誼を謝したが、受けるともなく、印面の文を見ていた。
寿亭侯之印
と、ある。
すなわち寿亭侯に封ずという辞令である。
「お返しいたそう。お持ち帰りください」
「お受けにならんのか」
「芳誼はかたじけのうござるが」
「どうして?」
「ともあれ、これは……」
曹操は、考えこんでいたが、
「印を見ぬうちに断ったか。印文を見てから辞退したのか」
「見ておりました。印の五文字をじっと……」
「では、予のあやまりであった」
曹操は、何か気づいたらしく、早速、鋳工を呼んで、印を改鋳させた。
改めてできてきた印面には、漢の一字がふえていた。
――漢寿亭侯之印――と六文字になっていた。
「丞相は実によくそれがしの心事を知っておられる。もしそれがし風情の如く、ともに臣道の実を践む人だったら、われらとも、よい義兄弟になれたろうに」
そういって、こんどは快く、印綬を受けた。
曹操は、あわてなかった。
まず行政官を先に派遣して、その地方の百姓をすべて、手ぎわよく、西河という地に移させた。
次に、自身、軍勢をひきいて行ったが、途中で、
「荷駄、粮車すべての輜重隊は先へ進め。――戦闘部隊はずっと後につづいてゆくがいい」
と、変な命令を発した。
「こんな行軍法があろうか?」
人々は怪しんだが、ぜひなく、その変態陣のまま、延津へ馳せ向った。すると案のじょう、戦闘装備を持たない輜重隊は、まっ先に敵に叩かれた。おびただしい兵糧を置き捨てて、曹軍の先頭は、四方に潰走してしまった。
「案ずるに及ばん」
曹操は、立ち騒ぐ味方をしずめ、
「兵糧など捨て置いて味方の一隊は、北へ迂回し、黄河に沿って、敵の退路を扼せ、――また一隊は、逃げるが如く、南の阜へ馳けのぼれ」と、下知した。
戦わぬうちから、すでに曹軍は散開を呈して、兵の凝集力を欠き、士気もあがらない様子を見たので、文醜は、
「見ろ、すでに敵は、わが破竹の勢いに恐れをなして、逃げ腰になっている」と、誇りきった。
そして、この図をはずすな、とばかり彼の大兵は、存分に暴れまわった。
盔や甲も脱いで、悠々と阜のうえにもぐりこんでいた曹操の部下も、すこし気が気ではなくなってきた。
「どうなることだ。今日の戦は。……こんなことをしていたら、やがてここも」
と、ほんとの逃げ腰になりかけてきた。
すると荀攸が、物陰から、
「いや、もっけの幸いだ。これでいいんだ!」と、あたりの者へ呶鳴った。
荀攸は、はっと、片手で口をおさえ、片手で頭をかいた。
二
で、浮き腰立つ味方へ、ついに自分の考えを口走ったのであるが、いまや大事な戦機とて、
(要らざることをいうな!)と、曹操から眼をもって叱られたのも当然であった。
まず味方から計る――曹操の計略は、まもなく図にあたって来た。
「戦果は充分にあげた。勝ち誇って、単独に深入りするのは危ないぞ」
と、文醜も気づいて、日没頃ふたたび、各陣の凝結を命じた。
後方の占領圏内には、まっさきに潰滅した曹操の輜重隊が、諸所に、莫大な粮米や軍需品を置き捨ててある。
「そうだ、鹵獲品は、みなこっちの隊へ運んでこい」
後方に退がると、諸隊は争ってこんどは兵糧のあばき合いを始めた。
山地はとっぷり暮れていた。曹操は、物見の者から、敵情を聞くと、
「それっ、阜をくだれっ」
と、指揮を発し、全軍の豹虎が、ふもとへ降りたと見ると、阜の一端から狼煙をあげさせた。
昼のうち、敗れて、逃げるとみせて、実は野に阜に河に林に、影を没していた味方は、狼煙を知ると、大地から湧き出したように、三面七面から奮い起った。
曹操も、野を疾駆しながら、
「昼、捨ておいた兵糧は敵を大網にかける撒餌の計だ。網をしぼるように、雑魚一尾のがすな」
と、さけび、また叱咤をつづけて、
と、励ました。
「きたなし文醜。口ほどもなく何処へ逃げる」
うしろの声に、文醜は、
「なにをッ」と、振向きざま、馬上から鉄の半弓に太矢をつがえて放った。
矢は、張遼の面へきた。
はッと、首を下げたので、鏃は盔の紐を射切ってはずれた。
「おのれ」
怒り立って、張遼が、うしろへ迫ろうとした刹那、二の矢がきた。こんどはかわすひまなく、矢は彼の顔に突き立った。
「胆太い曲者め」
文醜は、一躍さがって鉄弓を鞍にはさみ、大剣を横に払って、苦々と笑った。
「小僧っ、少しは戦に馴れたか」
「大言はあとでいえ」
若い徐晃は、血気にまかせた。しかし弱冠ながら彼も曹幕の一驍将だ。そうむざむざとはあしらえない。
「敵か? 味方か?」
と、疑いながら、彼のさしている白い旗を間近まで進んで見ると、何ぞはからん、墨黒々、
と、書いてある。
三
謎の敵将関羽?
兄の顔良を討った疑問の人物?
――文醜はぎょっとしながら駒をとめて、なお河べりの水明りを凝視した。
すると、肩に小旗をさした彼方の大将は、早くも、文醜の影を認めて、
と、一鞭して馳け寄ってきた。
「おおっ、汝であったか。さきごろわが兄の顔良を討った曲者は」
喚きあわせて、文醜も、ただちに大剣を舞わして迫った。
閃々、偃月の青龍刀。
晃々、文醜の大剣。
そのうち、かなわじと思ったか、文醜は急に馬首をめぐらして逃げだした。これは彼の奥の手で、相手が図に乗って追いかけてくると、その間に剣をおさめ、鉄の半弓を持ちかえて、振向きざまひょうっと鉄箭を射てくる策であった。
だが、関羽には、その作戦も効果はなかった。二の矢、三の矢もみな払い落され、ついに、追いつめられて後ろから青龍刀の横なぎを首の根へ一撃喰ってしまった。文醜の馬は、首のない彼の胴体を乗せたまま、なお、果てもなく黄河の下流へ駈けて行った。
「今ぞ、今ぞ。みなごろしに、追いつめろ」
曹操は、かくと伝え聞くや、中軍の鼓隊鑼隊に令して、金鼓を打たせ鉦を鳴らし、角笛を吹かせて、万雷風声、すべて敵を圧した。
「こことても油断はならぬ」と、きびしく陣容を守りかためていた。
そして、ほうほうの態で逃げこんでくる敗兵がみな、口々に、
「文将軍を討ったのも、さきに顔将軍を討った髯の長い赤面の敵だ」
というので、夜明けとともに、玄徳は一隊を率いて前線の近くまで馬をすすめて見た。
黄河の支流は、ひろい野に、小さい湖や大きな湖を、無数に縫いつないでいる。ふかい春眠の霞をぬいで、山も水も鮮やかに明け放れてはいるが、夜来の殲滅戦は、まだ河むこうに、大量な人物を撒いて咆哮していた。
「オオ、あの小旗、あの白い小旗をさしている男です」
案内に立った敗兵のひとりが支流の対岸を指した。百獣を追いまわす獅子王のような敵の一大将が遠く見える。
「……?」
「ああ! ……義弟の関羽にちがいない」
玄徳は瞑目して、心中ひそかに彼の武運を天地に祈念していた。
すると、後方の湖を渡って、曹操の軍が退路を断つと聞えたので、あわてて後陣へ退き、その後陣も危なくなったので、またも十数里ほど退却した。
四
「それは、まったくか」
「玄徳を呼べ。いつぞやは巧言をならべおったが、今日はゆるさん」
「大耳君、弁解の余地もあるまい。袁紹もなにもいわん。ただ君の首を要求する」
斬れ――と彼が左右の将に命じたので、玄徳はおどろいてさけんだ。
「お待ちなさい。あなたは、好んで曹操の策に、乗る気ですか」
「汝の首を斬ることが、なんで曹操の策に乗ることになろうや」
「いや、曹操が関羽を用いて、顔良、文醜を討たせたのは、ひとえに、あなたの心を怒らせて、この玄徳を殺させるためです。考えてもご覧なさい。この玄徳はいま、将軍の恩養をうけ、しかも一軍の長に推され、何を不足にお味方の不利を計りましょうや。ねがわくばご賢察ください」
玄徳の特長はその生真面目な態度にある。彼の言葉は至極平凡で、滔々の弁でもなく、なんらの機智もないが、ただけれんや駈引きがない。醇朴と真面目だけである。内心はともかく、人にはどうしてもそう見える。
「いや、そうきけば、自分にも誤解があった。もし一時の怒りからご辺を殺せば袁紹は賢を忌むもの――と世の嘲笑をうけたろう」
気色がなおると、彼はまた、甚だ慇懃鄭重であった。つつしんで、玄徳を座上に請じ、
「こう敗軍をかさねたのも、ご辺の義弟たる関羽が敵の中にあるため。……なんとか、そこにご辺として、思慮はあるまいか」と、諮った。
玄徳は、頭を垂れて、
「そう仰せられると、自分も責任を感ぜずにはおられません」
「ひとつ、ご辺の力で、関羽をこっちへ招くことはできまいか」
「私が、今ここに来ていることを、関羽に知らせてやりさえすれば、夜を日についでも、これへ参ろうと思いますが」
「なぜ早くそういう良計を、わしに献策してくれなかったのか」
「義弟とそれがしの間に、まったく消息がなくてさえ、常に、お疑いをうけ勝ちなのに、もしひそかに、関羽と書簡を通じたりなどといわれたら、たちまち禍いのたねになりましょう」
玄徳は拝諾して、黙々、自分の陣所へ帰った。
幕営のそと、星は青い。
玄徳はその夜、一穂の燈火を垂れ、筆をとって、細々と何か書いていた。
――もちろん関羽への書簡。
時おり、筆をやめて、瞑目した。往事今来、さまざまな感慨が胸を往来するのであろう。
燈火は、陣幕をもる風に、パチパチと明るい丁子の花を咲かせた。
「あ……。再会の日は近い!」
彼は、つぶやいた。燈火明るきとき吉事あり――という易経の一辞句を思いだしたからである。一点、彼の胸にも、希望の灯がともった。