陽城
陽城(ようじょう)とは
歴史的背景
陽城は河南の中部に属し、洛陽からも近い地域である。黄巾の乱をはじめとする後漢末期の戦乱では、各地で賊軍が拠点とした場所の一つとして記録されている。山地と平地が交わる要衝にあり、軍の駐屯や兵糧の供給地として利用された。
三国志での関わり
関連する人物
張角(黄巾軍を率いた反乱首領)
六。 伝令の告げるには、 。「先に戦没した賊将張宝の兄弟張梁という者、天公将軍の名を称し、久しくこの曠野の陣後にあって、督軍しておりましたが、張宝すでに討たれぬと聞いて、にわかに大兵をひきまとめ、陽城へたて籠って、城壁を高くし、この冬を守って越えんとする策を取るかに見うけられます」 。 とのことだった。 朱雋は、聞くと、 。
また、張譲その他の内官十三人を列侯に封じ、司空張温を大尉に昇せたりしたので、そういう機運に乗った者は、十常侍に媚びおもねって、さらに彼らの勢力を増長させた。 たまたま、忠諫をすすめ、真実をいう良臣は、みな獄に下されて、斬られたり毒殺されたりした。 従って宮廷の紊れは、あざむかず、民間に反映して、地方にふたたび黄巾賊の残党やら、新しい謀叛人が蜂起して、洛陽城下に天下の危機が聞えてきた。 この動乱と風雲の再発に、人の運命も波浪にもてあそばれる如く転変をきわめたが、たまたま、幸いしたのは、前年来...
それから彼は、日夜、大酒をあおって、禁中の宮内官といい、後宮の女官といい、気に入らぬ者は立ちどころに殺し、夜は天子の床に横たわって春眠をむさぼった。 或る日。 彼は陽城を出て、四頭立ての驢車に美人を大勢のせ、酔うた彼は、馭者の真似をしながら、城外の梅林の花ざかりを逍遥していた。 ところが、ちょうど村社の祭日だったので、なにも知らない農民の男女が晴れ着を飾って帰ってきた。 董相国は、それを見かけ、 。
「さわぐことはありません。相国、ここの天嶮は、伏兵をかくすに妙です」 。 李儒は、滎陽城のうしろの山岳を指さした。彼はいつも董卓の智慧嚢だった。彼の口が開くと、董卓はそれだけでも心が休まるふうに見えた。
」 。 ぎょッとして、駒の背へ飛び移るまに、もう残るわずかな郎党も矢に斃れたり、逃げる力もなく、草むらに、こときれてしまっている。 追いかけて来たのは、滎陽城太守の徐栄の新手であった。徐栄は、逃げる一騎を曹操と見て、 。「しめたッ」 。
それがし不才なれど、城を出て、一戦を試みん」と豪語した。 劉表も、それを許した。 蔡瑁は、一万余騎をひきいて、襄陽城を発し、峴山(湖北省・襄陽の東)まで出て陣を張った。 孫堅は、各所の敵を席捲して、着々戦果を収めて来た勢いで、またたちまち、峴山の敵も撃破してしまった。 蔡瑁は、口ほどもなく、みじめな残兵と共に、襄陽城へ逃げ帰って来た。
五。 ここ呂布は連戦連勝だ。 失意の漂泊をつづけていた一介の浪人は、またたちまち濮陽城の主だった。先に曹操を思うさま痛めつけて、城兵の士気はいやが上にも昂まっていた。「この土地に、田氏という旧家があります。