鵞毛の兵
一
いわんや、呉といえば、あの赤壁の恨みが勃然とわいてくるにおいてはである。
「来れ、遠路の兵馬」と、呉軍は待ち構えていた。彼が長途のつかれを討つべく。
孫権も、他の諸大将と、輪陣を作って、堂々、あとから押出した。
濡須一帯は、戦場と化した。曹操の先鋒は、泣く子も黙る張遼と見えた。功にはやった凌統は敵の見さかいもなくそれに当った。巌に砕ける浪のように、ぶつかったほうの陣形が微塵になって分離するのが、遠く、孫権の本陣からも見えた。
「おうっ」
と、呂蒙は一軍を率いて駈け出した。
そのあとへ、甘寧が来て、
「案外、敵は堅固です。総勢約四十万、さすがにどの陣も、疲労を見せておりません。これに、長途の疲労あるものと、正面からかかっては、大きな誤算となりましょう。てまえに、屈強の兵百人をおさずけ下さい。今夜、曹操の本陣を脅かしてごらんに入れます」
「わずか百人で」
「仕損じたらお嘲い下すってもかまいません」
「おもしろい」と孫権は彼の希望を容れた。特に直属の精鋭中から百人を選んで与えた。
甘寧は夕方、その百勇士を自分の陣所に招いて、一列に円くなって坐り、酒十樽、羊の肉五十斤を供え、
「これは呉侯からの拝領物だから、存分に飲ってくれ」
と、まず自身、銀の碗で一息にほして、順々にまわした。
肉を喰い、酒をあおり、百名は遺憾なく近来の慾をみたした。そこで甘寧は、
「もっと飲め、もっと喰え。今夜この百人で、曹操の中軍へ斬込むのだ。あとに思い残りのないようにやれ」と告げた。
一同は顔を見あわせた。酔った眼色も急にうろたえている。こんな百人ばかりの勢でどうして? ――といわんばかりな顔つきだ。
甘寧は、さッと、剣を抜き、起って、慨然と、叱咤した。
「呉の大将軍たる甘寧すら、国のためには、生命を惜しまぬのに、汝ら身を惜しんでわが命令にひるむかっ」
違背する者は斬らんという前触れである。ここで死ぬよりはと、百勇士はことごとく、剣の下に坐り直して、
「ねがわくは将軍に従って死をともにしたいと思います」
と、ぜひなく誓った。
「よし。ではめいめい、合印として、これを盔の真向へ挿してゆけ」
と、白い鷲の羽を一本ずつ手渡した。
夜も二更を過ぎると、この一隊は筏にのって水路を迂回し、堤にそい、野をよぎり、忍びに忍んで、ついに曹操の本陣のうしろへ出た。
「それっ、銅鑼を打て、鬨の声をあげろ」
柵へ近づくや、立ちどころに哨兵を斬り捨て、わっと一斉に、陣中へ入った。
たちまち、諸所に火の手があがる。
「将軍の胆は、さだめし曹操の魂を挫いだであろう。痛快、痛快」
二
昨夜の雪辱を期してであろう。夜が明けるとともに、張遼は一軍を引いて、呉の陣へ驀然、攻勢に出てきた。
「きょうこそは、華々と」
呉の凌統も、手に唾してそれをむかえた。甘寧が昨夜すばらしい奇功を立てて、君前のお覚えもめでたいことは、もう耳にしている。で、勃然、(彼如きに負けてなろうか)という日頃の面目も、今日の彼には、充分意中にある。漠々とけむる戦塵の真先に、張遼のすがた、その左右に、李典、楽進など、呉の兵を蹴ちらし蹴ちらし馳け進んできた。
凌統は、馬上、刀をひっさげて、疾風のように斜行し、
「来れるは、張遼か」
と、斬りつけた。
「おれは、楽進だ」
とその者は、槍をひねって、直ちに応戦してきた。
人違いか――と、舌打ちしたが、もうほかを顧みるいとまもない。楽進を相手に、五十余合も戦った。
凌統を狙ったのだが、すこし外れて、その馬にあたった。
「しめたっ」
呉の将も倒れ、魏の将も傷ついたので、両軍同時にわっと混み合って、互いに味方を助けて退いた。
「またしても、不覚をとりました。残念でなりません」
「兵家のつねだ」と慰めて、「きょう汝を救った者は誰ぞと思うか」といった。
次の日、魏の軍は、前日に倍加した勢いで、水陸から、呉陣へ迫った。
「さては曹操も、焦躁立って、総攻撃にかかって来たな」
呉陣も、それに応ずる大軍を展列して、濡須に兵船の墻を作った。
この日、目ざましかったのは、徐盛、董襲などの呉軍だった。そのため、魏陣の一角――李典の兵は馳けくずされ、そのまま、曹操の中軍まで、すでに危険に陥るかとすら思われたが、たちまち、大風が吹き起って、白浪天を搏ち、岸辺の砂礫は飛んで面を打ち、陽もまだ高いうちなのに、天地も晦くなってしまった。
しかも董襲の兵船は、河の中で沈没し、そのほかの兵船も、帆を裂かれ、彼方此方の岸にぶつけられ、さんざんな目に遭ったところへ、新手の魏軍が、徐盛の兵を包囲して、その半ばを、殲滅してしまった。
「あれ、救え」
と孫権の指揮をうけて、陳武が呉陣から馳け出して来ると、魏の一軍が、堤の蔭からつと起って、
かくて、この荒天の下、呉の旗色は、急に悪くなって、今は、総敗軍のほかなきに至ったが、若い孫権は、
「何事かあらん」