鹿と魏太子

 
 孔明還る、丞相還る。
 成都の上下は、沸き返るような歓呼だった。後主劉禅にも、その日、鸞駕に召されて、宮門三十里の外まで、孔明と三軍を迎えに出られた。
 帝の鸞駕を拝すや、孔明は車から跳びおりて、
「畏れ多い」と、地に拝礼し、伏していうには、
「臣、不才にして、遠く征き、よく速やかに平ぐるあたわず、多くの御林の兵を損じ、主上の宸襟を安からざらしむ。――まず罪をこそ問わせ給え」
「否とよ、丞相。朕は、御身の無事を見るだに、ただもううれしい。あれ扶けてよ」
 侍従に命じて抱き起させ、また帝みずから御手をのばして、鸞駕の内に孔明の座を分けあたえられた。
 幼帝と、丞相孔明と、同車相並んで、満顔に天日の輝きをうけ、成都宮の華陽門に入るや、全市の民は天にもひびくよろこびをあげ、宮中百楼千閣は、一時に、音楽を奏して、紫雲金城の上に降りるかと思われた。
 が、孔明は自己の功を忘れていた。吏に命じて、従軍中の戦死病歿の子孫をたずねさせ、漏るるなくこれを慰め、閑有っては、久しく見なかった農村へ行って、今年の実りを問い、村の古老、篤農を尋ね、孝子を顕賞し、邪吏を懲らし、年税の過少を糺すなど、あらゆる政治にも心をそそいだので、都市地方を問わず、今やこの国こそ、楽土安民の相を、地上に顕観したものと、上下徳を頌えない者はなかった。
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 大魏皇帝曹丕太子曹叡の英才は、近ごろ魏のうわさになっている。
 太子はまだ十五歳だった。
 母は、甄氏の女である。傾国の美人であるといわれて、初め袁紹の二男袁煕の夫人となったがそれを攻め破ったときから、曹丕の室に入り、後、太子曹叡を生んだのであった。だが、曹叡にも、一面の薄幸はつきまとった。母の甄氏の寵はようやく褪せて、郭貴妃に父曹丕の愛が移って行ったためである。
 郭貴妃は、広宗の郭永の女で、その容色は、魏の国中にもあるまいといわれていた。で、世の人が、女中の王なりと称えたので、魏宮に入れられてからは、
「女王郭貴妃」と、尊称されていた。
 しかし心は容顔の如く美しくない。甄皇后を除くため、張韜という廷臣と謀って、桐の木の人形に、魏帝の生年月日を書き、また何年何月地に埋むと、呪文を記して、わざと曹丕の眼にふれる所へ捨てた。
 曹丕はその佞を観破することができないで、とうとう甄氏皇后を廃してしまったのである。
 で――太子曹叡は、この郭女王に幼少から養われて、苦労もしてきたが、性は至極快活で、少しもべそべそしていない。とりわけ弓馬には天才的なひらめきがあった。
 この年の早春。
 曹丕は群臣をつれ狩猟に出た。
 一頭の女鹿を見出し、曹丕の一矢が、よくその逸走を射止めた。
 母の鹿が、射斃されると、その子鹿は、横っ跳びに逃げて曹叡の乗っている馬腹の下へ小さくなって隠れた。曹丕は、声をあげて、
曹叡、なぜ射ぬ。いやなぜ剣で突かぬか。子鹿はおまえの馬の下にいるのに」
 と、弓を揮って、歯がゆがった。
 すると、曹叡は、涙をふくんで、
「いま父君が、鹿の母を射給うたのさえ、胸がいたんでいましたのに、何でその子鹿を殺せましょう」
 と、弓を投げ捨てて、おいおい泣き出してしまった。
「ああ、この子は、仁徳の主となろう」
 と、曹丕は、むしろ歓んで、彼を斉公に封じた。
 その夏五月。
 ふと傷寒を病んで、曹丕は長逝した。まだ年四十という若さであった。
 
 
 生前の慈しみと、その遺詔に依って、太子曹叡は次の大魏皇帝と仰がれることになった。
 これは嘉福殿の約によるものである。嘉福殿の約とは、曹丕が危篤に瀕した際、三人の重臣を枕頭に招いて、
「幼くこそあれ、わが子曹叡こそは、仁英の質、よく大魏の統を継ぐものと思う。汝ら、心を協せて、これを佐け、朕が心に背くなかれ」
 との遺詔を畏み、重臣の三名も、
「誓って、ご遺託にそむきますまい」
 と、誓いを奏したその事をさすのであった。
 枕頭に招かれたその折の重臣というのは、
 
中軍大将軍曹真
鎮軍大将軍陳群。
撫軍大将軍司馬仲達
 
 の三名であった。
 これにもとづいて、三重臣は、曹叡を後主と仰ぎ、また曹丕文帝と諡し、先母后甄氏には、文昭皇后の称号を奉った。
 自然魏宮側臣の顔ぶれや一族の職にも改革を見ないわけにゆかない。まず、鍾繇を太傅とし、曹真は大将軍となり、曹休を大司馬となした。そのほか、王朗の司徒、陳群の司空、華歆の大尉などが重なるところであるが、なお文官武官の多数に対しても、叙爵進級が行われ、天下大赦の令も布かれた。
 ここにひとり問題は、司馬仲達が騨騎将軍に就任したことである。あえて破格でもないが、この人にして何となくその所を得たような観があった。のみならず彼は、その頃ちょうど、雍涼の州郡を守る人がなかったのを知っていたので、自ら表を奉って、
「わたくしに西涼州郡の守りをお命じください」と、願い出た。
 西涼州といえば、北夷の境に近く、都とは比較にならないほどな辺境である。かつては馬騰出で馬超現われ、とかく乱が多くて治めにくいところである。
 求めてこれを治領したいという司馬懿の眷願に、帝はもとより勅許されたし、魏中の重臣も、物好きな、とだけで、誰もさえぎる者はなかった。
 ために、朝廷は特に、彼の官職をも、
西涼の等処、兵馬提督」となして、印綬を降した。
「やれやれ、ほっとした」
 司馬仲達は、北へ向って赴任の馬を進めながら、実に久々で狭い鳥籠から青空へ出たような心地を抱いた。吐く息吸う息までが広々と覚えた。
 宮中の侍臣、重臣間の屈在もすでに久しいものがあった。曹操時代からの宮仕えである。本来彼の真面目は、そういう池の中に長く、棲めるものではなかったらしい。
 蜀の細作は、早耳に知って、すぐこの異動をも成都に報じた。蜀臣のうち誰もなんとも思う者はなかった。
「ああ仲達西涼へやられたか」
 その程度の関心でしかない。しかしそれを聞くと、ひとり愕然と、唇を結んだ人がある。ほかならぬ孔明であった。
 いやもう一人、彼とひとしい驚きをなして、早速、丞相府へやってきた者があった。
 若い馬謖であった。
「お聞き及びになりましたか」
「きのう知った」
河内温の人、司馬懿。字は仲達。あれは魏一国の人物というよりは、当代の英雄と私はみておりましたが」
「後日、わが蜀に患をなす者があるとすれば、おそらく彼であろうよ。――大魏皇帝の統を曹叡がうけたことなどは、心にかけるまでもないが」
「同憂を抱きます。仲達西涼赴任は、看過できません」
「討つか。今のうちに」
「いや丞相。南蛮遠征の後、まだ日を経ておりません。ここは考えものでしょう。私におまかせ下さい。曹叡をあざむいて、兵を用いず。司馬懿を死に至らしめてみます」
 若年のくせに実に大言である。孔明は馬謖の面をみまもった。
出師の巻 第48章
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