第七鎮 。 東郡の太守喬瑁 。 そのほか、済北の相、鮑信、字は允誠とか、西涼の馬騰とか、北平の公孫瓚とか、宇内の名将猛士の名は雲の如くで、袁紹の兵は到着順とあって、第十七鎮に配せられた。「自分も参加してよかった」 。 ここへ来て、その実状を見てから、袁紹も心からそう思った。
先手を承った孫堅の陣はもちろん、 。「来れや、敵」と、覚悟のまえの緊張を呈していた。 その後陣に、済北の鮑信が備えていたが、北軍南下の報らせを聞くと、弟の鮑忠をそっと呼んで、 。「どうだ弟。おまえがひとつ、小勢をつれて間道を迂回し、汜水関の敵へ、奇襲をやってみんか」 。
けれど、その封爵の恩典よりも、彼の獲た実利のほうがはるかに大きかった。 討伐百日の戦に、賊軍の降兵三十万、領民のうちからさらに屈強な若者を選んで総勢百万に近い軍隊を新たに加えた。もちろん、済北済南の地は肥沃であるから、それを養う糧草や財貨もあり余るほどだった。 時は初平三年十一月だった。 こうして彼の門には、いよいよ諸国から、賢才や勇猛の士が集まった。
勢いにのった呂布軍は、全線にわたって、攻勢を示し、 。「この図をはずすな」と、呂布自身、馬をとばして、押し進んできた。 李典、呂虔の兵は、済北まで引きしりぞいた。呂布は、全戦場の形勢から、 。「勝機は今。
「老母を養うべし」と、使いにいわせた。三。 曹操の本軍が済北に到着すると、先鋒の夏侯淵は片眼の兄を連れて、 。「ご着陣を祝します」と、第一に挨拶に来た。「夏侯惇か、その眼はどうしたのだ」 。