冒頭 交州(こうしゅう)とは、後漢から三国時代にかけて中国の最南部に置かれた州の一つで、交趾・九真・日南など南海沿岸から現在のベトナム北部一帯を含む広域の行政区画です。 概要 中原の政争や戦乱から距離があり、山岳・海...
冒頭 蜀漢の南征(しょくかんのなんせい)とは、蜀(蜀漢)の丞相・諸葛亮(孔明)が、益州南部の南蛮勢力を討伐・服属させて、国内の後顧の憂いを断とうとした遠征です。魏・呉と対峙するうえで、背後の不安を除く必要があると位置づけられま...
冒頭 天下三分の計(てんかさんぶんのけい)とは、諸葛孔明が劉備に示した政略と軍略の大方針で、曹操が北を、孫権が南を押さえる情勢のなかで、劉備が荊州と益州を基盤として第三の勢力を樹立し、鼎足の形で天下を三分して対抗均衡を作る構想...
冒頭 朱褒(しゅほう)とは、蜀の益州南部で起きた反蜀勢力の一角を担った、牂牁郡の太守として描かれる人物です。雍闓・高定らと結び、諸葛亮(孔明)の南征に対して連合戦線を構成します。 生涯 益州南部において、建寧太守の雍...
冒頭 高定(こうてい)とは、蜀の益州南方で勢力を持った越雋の首長格で、南中の動乱では雍闓や朱褒に連して蜀に敵対した人物です。孔明は当初から「高定は元来、忠義な人」「雍闓にだまされて謀反に与した」と見て、帰順の余地を残す扱いをします...
冒頭 益州牧(えきしゅうぼく)とは、後漢の行政区画である益州を統治するために置かれた州牧の官職で、軍政・民政の実権を握る地方長官です。作中では、朝廷が劉焉を「益州の牧」に封じて四川方面の賊を討たせる任命として現れます 。 概...
冒頭 征賊第一勲(せいぞくだいいっくん)とは、賊徒を征討した功績のうち、とくに第一等の勲功として朝廷が顕彰する旨を示す言い方です。 概要 吉川英治『三国志』では、黄巾賊の首魁である張角が陣中で病没したのち、官軍が総攻...
冒頭 漢室の宗親(かんしつのそうしん)とは、漢王朝(劉氏)の皇帝家につらなる一族・同姓の血縁集団、およびその親類関係を指す言葉です。吉川英治『三国志』では、劉備が「漢室の宗親」であることが、諸侯や朝廷からの扱い、同族間の政治判...
冒頭 秦宓(しんふく)とは、蜀の益州に属する学士で、字は子勅という人物です。孔明の邸で呉の使節張蘊に紹介され、蜀の学風と自らの学識を根拠に応答して名を示します。 生涯 蜀の朝廷では文官として列し、劉備が関羽の仇討ちを...
冒頭 漢民族(かんみんぞく)とは、中国史上で多数派を占め、漢王朝以来の政治秩序や文字文化を担ってきた人々を指す呼称です。吉川英治『三国志』では、戦乱による人口移動や「漢」を奉戴する政治理念と結びついて用いられます。 概要 ...
張飛翼徳(ちょうひ よくとく)とは 劉備玄徳に仕えた義兄弟のひとりで、字は翼徳。三国志のなかでも豪放磊落な性格と勇猛な戦いぶりで知られる名将。 生涯 涿郡の出身。劉備・関羽と出会い、桃園で義兄弟の契りを結んだ。黄巾の...
劉備玄徳(りゅうび げんとく)とは 劉備玄徳は、三国志の主要人物の一人であり、蜀漢の建国者で初代皇帝(昭烈帝)となった人物である。字は玄徳。後漢の宗室の末裔を自称し、仁義を重んじた姿勢から「仁君」として広く知られる。吉川英治『...
一 潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の朱雋も皇甫嵩も、賊軍を追いせばめて、遠く河南の曲陽や宛城方面へ移駐しているとのことであった。 「さしも旺だった黄巾賊の勢力も、洛陽の派遣軍...
劉焉(りゅうえん)とは、中国後漢末期の武将・政治家。漢王朝の皇族の一員であり、三国志の序盤で蜀の地(益州)を支配したことで知られる。 生涯 劉焉は、もとは朝廷で活躍した文官で、のちに天下が乱れた時代、漢王朝の内部抗争を逃れる...
一 壮図むなしく曹丕が引き揚げてから数日の後、淮河一帯をながめると縹渺として見渡すかぎりのものは、焼け野原となった両岸の芦萱と、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸と、そして油ぎった水面になお限りなく漂っている魏兵の死骸だけであった。 ...
一 馬謖は云った。 「なぜか、司馬懿仲達という者は、あの才略を抱いて、久しく魏に仕えながら、魏では重く用いられていません。彼が曹操に侍いて、その図書寮に勤めていたのは、弱冠二十歳前後のことだと聞いています。曹操、曹丕、曹叡、三...
一 この年四月頃から蜀帝玄徳は永安宮の客地に病んで、病状日々に篤かった。 「いまは何刻か?」 枕前の燭を剪っていた寝ずの宿直や典医が、 「お目ざめでいられますか。いまは三更でございます」と、奏した。 白々と耀き...
一 益州の平定によって、蜀蛮の境をみだしていた諸郡の不良太守も、ここにまったくその跡を絶った。 従って、孔明の来るまで、叛賊の中に孤立していた永昌郡の囲みも、自ら解けて、太守王伉は、 「冬将軍が去って、久しぶりに春の天日...
一 孔明の家、諸葛氏の子弟や一族は、のちに三国の蜀、呉、魏――それぞれの国にわかれて、おのおの重要な地位をしめ、また時代の一方をうごかしている関係上、ここでまず諸葛家の人々と、孔明そのものの為人を知っておくのも、決してむだではなか...
一 十年語り合っても理解し得ない人と人もあるし、一夕の間に百年の知己となる人と人もある。 玄徳と孔明とは、お互いに、一見旧知のごとき情を抱いた。いわゆる意気相許したというものであろう。 孔明は、やがて云った。 「も...
一 玄徳の死は、影響するところ大きかった。蜀帝崩ず、と聞えて、誰よりも歓んだのは、魏帝曹丕で、 「この機会に大軍を派せば、一鼓して成都も陥すことができるのではないか」 と虎視眈々、群臣に諮ったが、賈詡は、 「孔明がお...
一 覇者は己れを凌ぐ者を忌む。 張松の眼つきも態度も、曹操は初めから虫が好かない。 しかも、彼の誇る、虎衛軍五万の教練を陪観するに、いかにも冷笑している風がある。曹操たる者、怒気を発せずにはいられなかった。 「張松...
一 要するに、陸遜の献策は。 一つには魏の求めに逆らわず、二つには蜀との宿怨を結ばず、三つにはいよいよ自軍の内容を充実して形勢のよきに従う。 ということであった。 呉の方針は、それを旨として、以後、軍は進めて、あ...
益州(えきしゅう)とは、古代中国における州(行政区域)の一つで、三国志の時代においては、現在の四川省を中心とした地域に該当します。 この地は、蜀(しょく)、すなわち後の蜀漢(しょくかん)が建国された地でもあり、諸葛亮や劉備といった有...
一 周瑜は、その後も柴桑にいて瘡養生をしていたが、勅使に接して、思いがけぬ叙封の沙汰を拝すると、たちまち病も忘れて、呉侯孫権へ、次のような書簡をしたためて送った。 天子、詔を降して、いま不肖周瑜に、南郡の太守に封ずとの恩命があり...