下邳
下邳(かひ)とは
歴史的背景
下邳は春秋戦国時代から戦略的に重視された土地で、漢代には下邳国・下邳郡が置かれた。交通と水運の要衝であり、軍事的・経済的に価値の高い地域であった。
三国時代には魏・呉・蜀の間で争奪戦が繰り返された。
三国志での関わり
下邳は『三国志』において重要な舞台の一つである。
関連する人物
有名なエピソード
「これは呉郡富春(浙江省・富陽市)の産で、孫堅、字は文台という者です。古の孫子が末葉であります。官は下邳の丞ですが、このたび王軍、黄巾の賊徒を諸州に討つと承って、手飼いの兵千五百を率い、いささか年来の恩沢にむくゆべく、官軍のお味方たらんとして馳せ参じた者であります。――朱雋将軍へよろしくお取次を乞う」 。 堂々たる態度であった。
一。 下邳は徐州から東方の山地で、寄手第六軍の大将韓暹は、ここから徐州へ通じる道を抑え、司令部を山中の嘯松寺において、総攻撃の日を待っている。 もちろん、街道の交通は止まっている。野にも部落にも兵が満ちていた。
その憂いも一理あるな」 。 呂布は急に糜竺を招いて、 。「そちは陳大夫と共に城に残ってわが妻子や金銀兵糧などを、すべて下邳の城のほうへ移しておけ。よろしいか」と、いいつけた。 彼は、後方の万全を期したつもりで、勇躍、徐州城から馬をすすめて行ったが、何ぞ知らん、その糜竺も、疾くから陳大夫父子と気脈を通じて、呂布の陥穽を掘っていた一人だったのである。
赤兎馬の尾も触れんばかり後ろに迫ったが、彼の馬と、呂布の馬とは、その脚足がまるで違う。 駿足赤兎馬の迅い脚は、辛くも呂布の一命を救った。 徐州は奪られ、小沛にははいれず、呂布は遂に、下邳へ落ちて行った。 下邳は徐州の出城のようなもので、もとより小城だが、そこには部下の侯成がいるし、要害の地ではあるので、 。「ひとまずそこに拠って」と、四方の残兵を呼び集めた。
よくいってくれたぞ。――では早速、袁術へ宛て、書簡をしたためるからそれを携えて、淮南へ急いでくれい」 。「御命、かしこまりました――しかし、この下邳の城は、すでに敵の重囲にあり、また、淮南の通路は、劉玄徳が関をもうけて、往来を厳しく監視しておりますとか。……何とぞ臣らの使命のため、一軍の兵をお出しあって、通路の囲みを突破していただきたく存じますが」 。「よろしい、さもなくては淮南へ出ることはかなうまい」 。
荀攸は、心外なりとばかり、口を極めて、退くことの不利を説いた。 さらにまた、郭嘉が、 。「この下邳の陥ちないのは、泗水、沂水の地の利あるゆえですが、その二水の流れを、味方に利用せば、敵はたちまち破れ去ること疑いもありません」と、一策を提出した。 それは泗水河と沂水河に堰を作って、両水をひとつに向け、下邳の孤城を水びたしにしてしまうことだった。 この計画は成功した。
また。――南門にいた陳宮は、「南門を、死場所に」と、防戦に努めていたが、曹操麾下の勇将徐晃に出会って、彼もまた、捕虜の一人となってしまった。 こうして、さしもの下邳城も、日没と共に、まったく曹操の掌中に収められ、一夜明けると、城頭楼門の東西には、曹軍の旗が満々と、曙光の空にひるがえっていた。 曹操は、主閣白門楼の楼台に立って、即日、軍政を布き人民を安んじ、また、玄徳を請じて、傍らに座を与え、 。「いざ。