孔明を呼ぶ
一
蜀を破ったこと疾風迅雷だったが、退くこともまた電馳奔来の迅さであった。で、勝ち驕っている呉の大将たちは、陸遜に向って、
と、半ばからかい気味に訊ねた。
陸遜は、真面目に云った。
「然り、我輩が孔明を怖れたことは確かだ。けれど引き揚げた理由はべつにある。それは今日明日のうちに事実となって諸公にも分ってくるだろう」
人々は、一時のがれの遁辞だろうとおよそに聞いていたが、一日おいて二日目。この本営には、櫛の歯をひくような急変の報らせが、呉国の諸道から集まってきた。すなわちいう、
「成都に帰って群臣にあわせる顔もない」
蜀の側臣は、玄徳に告げて、
「黄権の妻子一族を斬ってしまうべきでしょう」
と、すすめたが、玄徳は、
といって、かえって彼の家族を保護するようにいいつけた。
「いやか」
と、問うと、
「敗軍の将、ただ一死を免れるを得ば、これ以上のご恩はありません」
と、暗に仕えるのを拒んだ。
そこへ一名の魏臣が入って、わざと大声で、
聞くと、黄権は苦笑して、
「それはきっと何かのお間違いか、為にする者の虚説です。わが皇帝はそんなお方では決してありません」と、かえってそれらの者の無事を信ずるふうであった。
「賈詡、朕が天下を統一するには、まず蜀を先に取るべきか、呉を先に攻めるべきだろうか」
賈詡は、黙考久しゅうして、
「蜀も難し、呉も難し……。要は両国の虚を計るしかありません。しかし陛下の天威、かならずお望みを達する日はありましょう」
「いま、わが魏軍は、その虚を計って、三道から呉へ向っておる。この結果はどうか」
「おそらく何の利もありますまい」
「さきには、呉を攻めよといい、今は不可という。汝の言には終始一貫したものがないではないか」
二
――だが、賈詡はなお面を冒して云った。
「そうです。さきに呉が蜀軍に圧されて敗退をつづけていた時ならば、魏が呉を侵すには絶好なつけ目であったに相違ございません。しかるにいまは形勢まったく逆転して、陸遜は全面的に蜀を破り、呉は鋭気日頃に百倍して、まさに不敗の強味を誇っております。故に、今では呉へ当り難く、当るは不利だと申しあげたわけであります」
「もういうな。御林の兵はすでに呉の境へ出ておる。朕の心もすでに定まっておるものを」
曹丕は耳もかさなかった。そして三路の大軍を補強して、さらに、彼自身、督戦に向った。
一面蜀を打ち、一面魏を迎え、この間、神速円転、用兵の妙を極めた陸遜の指揮のために、呉は何らのうろたえもなく、堂々、三道の魏軍に接して、よく防ぎよく戦った。
就中。――呉にとってもっとも枢要な防禦線は、主都建業に近い濡須の一城であった。
「ここだに陥とせば、敵府建業の中核へ、まさに匕首を刺すものである。全軍それ励めよ。大功を立つるは今ぞ」
ときに、濡須の守りに当った呉の大将は、年まだ二十七歳の朱桓であった。
朱桓は若いが胆量のある人だった。さきに城兵五千を割いて、羨渓の固めに出してしまったので、城中の兵は残り少なく、諸人がみな、
「この小勢では、とても眼にあまる魏の大軍を防ぎきれまい。今のうちにここを退いて、後陣と合するか、後陣をここへ入れて、建業からさらに新手の後ろ備を仰がねば、互角の戦いをすることはできまい」
恟々と、ふるえ上がっているのを見て、朱桓は、主なる部下を会して告げた。
「魏の大軍はまさに山川を埋めている観がある。しかし彼は遠く来た兵馬であり、この炎暑にも疲労して、やがてかえって、自らの数に苦しむときが来るだろう。陣中の悪疫と食糧難の二つが彼を待っておる。それに反して、寡兵なりといえ、われは山上の涼地に籠り、鉄壁の険に加うるに、南は大江をひかえ、北は峩々たる山険を負う。――これ逸をもって労を待つ象。兵法にもこういっておる。――客兵倍ニシテ主兵半バナルモノハ、主兵ナオヨク客兵ニ勝ツ――と。平川曠野の戦いは兵の数よりその掛合いにあること古来幾多の戦いを見てもわかる。ただ士気乏しきは凶軍である。貴様たちはこの朱桓の指揮を信じて、百戦百勝を信念せよ。われ明日城を出て、その証を明らかにその方たちの眼にも見せてやるであろう」
次の日、彼はわざと、虚を見せて、敵勢を近く誘った。
魏の常雕は、短兵急に、城門へ攻めかけて来た。――が、門内は寂として、一兵もいないようであった。
「敵に戦意はない。或いはすでに搦手から逃散したかもしれぬぞ」
兵はみな不用意に城壁へつかまり、常雕も壕のきわまで馬を出して下知していた。
弩や征矢が、魏兵の上へいちどに降りそそいできた。城門は八文字にひらかれ、朱桓は単騎乱れる敵の中へ入って、魏将の常雕を、ただ一太刀に斬って落とした。
前隊の危急を聞いて、中軍の曹仁は、即座に、大軍をひきいて進んできたが、何ぞはからん振り返ると、羨渓の谷間から雲のごとく湧き出した呉軍が、退路を切って、うしろからとうとうと金鼓を打ち鳴らしてくる。
実に、この日の敗戦が、魏軍にとって、敗け癖のつき始まりとなった。以後、連戦連敗、どうしても朱桓の軍に勝てなかった。