洛陽に生色還る
一
「いますでに、魏帝におかせられては、長安へ進発あらせ給い、曹真を督して、孔明を破らんとしておられるに、途々の風聞によれば、司馬都督には、洛陽へのぼるともっぱら沙汰いたしておるが、何故いま、帝もおわさぬ都へわざわざお上りなさるのか」と、怪しんで訊ねた。
と、実を打ち明けた。
「さてこそ」と、徐晃は膝をたたいて、
「――さもあらば、それがしも貴軍に合して、往きがけの一働きを助勢つかまつりたいが」
と、云い出した。
希ってもないことであると、司馬懿は彼に先鋒の一翼を委せた。
すると、第五部隊の参軍梁畿から、
「かかる物が手に入りました」
それを見ると仲達は、愕然たる態をなして、
金城の太守申儀や、上庸の申耽などに、大事を打ち明けて、
「不日、孔明に合流せん」と、密盟をむすんでいたその事に安心して、実は申儀も申耽も、腹を合わせて、魏軍が城下へ来たら突如としてそれに内応し、孟達に一泡ふかせてくれん――としているものとは夢にも気づかずにいたのである。
そういう詳報も入った。
孟達は聞くごとによろこんで、
「万端、こちらの思うつぼだ。いでや日を期して、洛陽へ攻め入らん」
と、上庸の申耽と、金城の申儀へその旨を早馬でいい送り、何月何日、軍議をさだめ即日大事の一挙に赴かん――と、つぶさに諜し合わせにやった。
ところが、一と朝。
まだその日の来ないうちにである。暁闇をやぶって、城下の一方から旺なる金鼓のひびきが寝ざめを驚かせた。何事かと、仰天して、物の具をまとうや否や、孟達は城のやぐらへ駈けのぼった。見れば、暁風あざやかに魏の右将軍徐晃の旗が壕近くに見えたので、
「や、や、いつの間に」
と、弓をとって、その旗の下に見える大将へひょうと一矢を射た。
何たる武運の拙なさ。
徐晃は、この朝、攻めに先だって、真額を射ぬかれ、馬からどうと落ちてしまった。
二
緒戦の第一歩に、大将を失った徐晃軍は、急襲してきたその勢いを、いちどに怯ませて、先鋒の全兵みな、わあと、浮き足たった。
城のやぐらからそれを眺めた孟達は、いささか勇気を持ち返して、
「わが大事は、露顕したらしいが、射手の勢は、多寡の知れた人数。しかも大将徐晃はただ一と矢に射止めた。蹴ちらす間には、やがて金城、上庸の援軍も来る。衆みな門を出て、怯み立った寄手どもを一兵のこらず屠ってしまえ」と、金城へ急命を出した。
城兵は各門から突出して、魏兵を追いくずした。孟達も馬をすすめ、
「あな快や」と、敵勢を薙ぎ伏せ、蹴ちらして、果てなく追撃を加えた。
しかし追えば追うほど、敵兵の密度は増し、濛々の戦塵とともに敵陣はますます重厚を加えてくる。――はてな? と孟達がふと後ろを見ると、何ぞはからん、翩翻として千軍万馬のうえに押し揉まれている大旗を見れば、「司馬懿」の三文字が金繍の布に黒々と縫い表わされてあるではないか。
「しまった。徐晃勢だけではなかったか」
あわてて引っ返しにかかった時は、彼の率いていた軍容は全く隊伍をみだしていた。あまつさえ、彼が自分の城へ帰って、そこの城門へ向って烈しく、
「はやく開けろ」と、呼ばわると、おうと答えて、門扉を押し開き、どっと突出して来たのは、申耽、申儀の二軍だった。
「反賊、運のつきだぞ」
「こころよく天誅をうけろ」
猛然、迫ってきたものこそ、まさに味方とたのんでいたその二人にまぎれもない。
孟達は仰天して、
「人ちがいするな」と呶鳴ったが、申耽、申儀の二将は、大いにあざ笑って、
「汝こそ、戸まどいして、これに帰って来る愚を醒ませ。あれみろ、城頭高くひるがえっているのは、蜀の旗か、魏の旗か、冥途のみやげによく見てゆけ」と罵った。
その城頭からは、李輔、鄧賢などという魏将が雨あられと、矢を放っていた。
孟達は、きたなくもまた、逃げ奔ったが、申耽に追いつかれて、武将のもっとも恥とする後ろ袈裟の一刀を浴びて叫絶一声、ついに馬蹄の下の鬼と化してしまった。
「司馬懿が起った」
と、その生色をよみがえらせた。
「司馬懿なるか。かつて汝をしりぞけて郷里にわびしく過ごさせたのは、まったく朕の不明が敵の謀略にのせられたものに依る。いまふかくそれを悔ゆ。汝また、うらみともせず、よく魏の急に駈けつけて、しかもすでに孟達の叛逆をその途に打つ。――もし汝の起つなかりせば、魏の両京は一時にやぶれ去ったかもしれぬ。嘉しく思うぞ」
と、優渥なる詔を降した。
司馬懿は、感泣して、
「勅命をもうけず、早々、途上において戦端をひらき、僭上の罪かろからずと、ひそかに恐懼しておりましたのに、もったいない御諚をたまわり、臣は身のおくところも存じませぬ」
と、ひれ伏した。帝は、
「否、否。疾風の計、迅雷の天撃。いにしえの孫呉にも勝るものである。兵は機を尊ぶ。以後、事の急なる時は、朕に告ぐるまでもない。よろしく卿の一存において料れ」
と、破格にもまた前例なき特権をあたえ、かつ、金斧、金鉞一対を賜わった。