漢中併呑
一
(――急に、魏公が、あなたと夏侯惇のおふたりに内々密議を諮りたいとのお旨である。すぐ府堂までお越しありたい)
「なんだろう?」
曹仁は、洛中の邸から、すぐ内府へ急いだ。
ここの政庁の府でも、曹仁は魏公の一門に連なる身なので、肩で風を切るような態度で、どこの門も、大威張りで通った。
すると、曹操のいる中堂の入口まで来ると、
「こらっ、待て」と、何者かに誰何された。
見ると、許褚が、狛犬のように、剣をつかんで、番に立っている。咎めるのはもちろん彼である。
「なんだ、許褚」
「なんだではない。閣下には、どこへお通りあるつもりか」
「魏公にお目にかかりに来たのだ。わしの顔を知らぬ貴様でもあるまいに、なんで咎めるか」
「魏公にはただ今、お昼寝中である。通ってはならん」
「余人なら知らぬこと、わしが通るに、なんでさしつかえがあろう。お昼寝中でもかまわん」
「いや、いかん」
「何だ。上官に対して。――おれは魏公の肉親だぞ」
「たとい、どれほど親しいお方であろうと、断じて、君のおゆるしを仰がぬうちは、ご身辺へ寄せることは相ならぬ。許褚、身は微賤なりとはいえ、君の内侍を承り、ご身辺の警固を仰せつけられて、ここに在るからには、その職権を以て、固く拒む。……魏公がお目ざめ遊ばしたら、内意を伺って、ご案内する。それまでは外でお控えなさい」
どうしても通さない。頑として曹仁を入れなかった。
「いや、きょうはひどい目にあった。許褚というやつは、実に頑固な男ですな」
と、ありのまま話した。曹操は聞くと、
「それは、虎侯(許褚)らしい。彼のような男がいればこそ、予も枕を高くして臥すことができる」と、かえって、彼の忠誠を大いに賞めた。
「ほかでもないが」と、曹操は、三名を揃えてから、きょうの用向きを語りだした。
「近ごろ、よくよく考えると、どうも蜀をあのまま放っておくのは、将来の大患だと思う。何とか、いまの内に、玄徳を蜀から切り離す方法はないだろうか」
夏侯惇がすぐ答えた。
「大きにそうだが、漢中の状況はどうだ」
「いまならば、一鼓して打ち破れましょう。漢中には、どこといって、支持する国がほかにありませんから」
「では、西征の大旅団を、至急編制して、まず張魯を討つとするか」
「あそこを取れば蜀の兵は、扉の口を封じられた糧倉の鼠みたいなもので、中で居喰いをつづけていても、その運命は知れたものです」
それは賈詡の言だった。
「どうして防ぐか」
陽平関は、その左右の山脈に森林を擁し、長い裾野には、諸所に嶮岨もあり、一望雄大な戦場たるにふさわしかった。
関をへだつこと十五里。すでに魏の西征軍の先鋒は、陣地を構築しはじめていた。
二
この陽平関の序戦では、魏の先鋒が、大敗を喫した。
敗因は、魏の兵が地勢に暗かったことと、漢中軍がよく奇襲を計って、魏の先鋒を、各所で寸断し、その孤立した軍を捉えては殲滅を加えるという戦法に出たことが、奏功したものと見えた。
「若い若い。汝らの攻撃を見ていると、まだまるで児戯にひとしい」
「あれが張衛の陣か、程の知れた布陣、何ほどのことがあろう」と、いった。
そのことばと同時に、背後の一山から、驟雨のように矢が飛んできた。愕いて急に振りかえると、敵の楊昂、楊任、楊平などの旗じるしが、攻め鼓に士気を振って、
「網中の大鵬を逃がすな」と、麓の退路を断ちにかかった。
この日から次の日の戦争にかけて、魏軍はまたしても莫大な兵を損じた。三日目にも挽回がつかず、曹操も苦戦に陥ちて、万死のうち一生を拾って逃げ帰ったほどである。
陣を七十里ほど退いて、対峙すること五十余日、曹操も、容易に抜き難いことをさとったか、
「ひとまず許都へ還って、さらに出直そう」
と、布令た。
一夜のうちに、魏の旌旗は、忽然とかき消えた。漢中軍の帷幕では、
「いまこそ退く魏兵を追って、徹底的に殲滅すべし」となす楊昂の説と、
「いやいや、曹操は謀計の多い人物だ。うかとは追えない」
という楊任の説とが対立していたが、結局、楊昂は我説を張って、遂に、五寨の軍馬を挙げて、追撃に出てしまった。
「開門っ、開門っ」
奇襲好きな漢中軍へ、こんどは逆手を取って、奇襲したものである。魏兵は城内へ混み入るなり八方へ火をかけた。夜に入るし、留守は手薄であったため、焔の城頭たかく、たちまち、魏の旗が立てられてしまった。
「それ以上、退く者は、即座に首を刎ねる」
「いまや存亡の最後に迫った。誰かこの危急に当って、漢中を救うものはないか」
と、文武の百官に大呼した。
漢中の一将、閻圃はさけんだ。
三
人々の中では、いぶかる者もあったが、張魯はもちろん知っていた。
「なるほど、彼ならば!」
と、張魯は膝を打って、閻圃の進言を容れ、すぐ呼びにやった。
龐徳は、これへ来て、重大な命をうけるや、
「この国へ来て、一日の恩養をこうむる以上、この国の難を傍観しては義に反く」
と、一言のもとに伏して、張魯の手から将旗を受領し、兵一万余騎を併せうけて、直ちに前線へおもむいた。
――龐徳来る!
と、聞くと曹操は、
「さらば彼を気労れさせん」と、諸軍はもっぱら神経戦をたくらんで、一番二番三番四番――と数段に備えを立て、いわゆる車掛りとなって、順番に接戦してはたちまち退き、また新手が出てはすぐ次へ代る――という戦法をとった。
敵ながら天晴れなと、魏の全軍中で、大きな評判になった。
「さもあらん」と、曹操もほくそ笑んで、あたかも森林の中で、美しい小禽でも追い廻している少年のような心理に似て、
「何とか、生捕れんか」と、爪を噛んだ。
賈詡が一計をさずけた。
そのせいか、翌る日の戦では、魏軍は崩れ立って、十数里退いた。
龐徳は魏の陣屋を占領したが、いつになく敵の勢いに手ごたえがないので、決して油断はしていない。
ところが、この戦利品搬入の雑軍の中に、魏の間諜が変装してまじっていたものとみえ、城内に住む楊松の邸へ、その男がそっと訪ねてきた。
「まず、ご一覧ください」と、いった。
楊松は漢中の重臣だが、つねに賄賂を好み、悪辣な貪慾家としては有名な者だったから、黄金の「心当」を見るとまず眼を細めて、(……ほう。大した物)と、垂涎せんばかりな顔いろを示した。
のみならず曹操の文には、彼が夢想もしなかった恩爵の好餌をもって、裏切りをすすめてある。
「よろしい。畏まった」
一も二もなく、楊松は、内応を約した。
「馬超の身内は、やはり馬超の身内でしかありません。彼は本気で戦っていないのです。せっかく、魏の陣屋を占領しながら、たちまち、それを敵に返し、態よく南鄭城へ引っこんでいるという調子です。察するところ、曹操と内通しているかも知れません。ひとつお調べになる必要がありましょう」
四
「この忘恩の徒め。よくも曹操と内通して、わが軍を売ったな」
と、思いもよらぬ怒り方で、果ては首を刎ねんと罵った。
「まず、まず、そうお怒り遊ばしては、実も蓋もありません。一応、龐徳の陳弁を聞いて、身の潔白をとなえるなら、再度、功を立てさせてみたら如何なものでしょう」
これは、かたわらに在った閻圃のとりなしであった。
結局、張魯は、閻圃の諫めに従って、
「――では、一命をあずけておくが、再び前線へ出て、大功を立てぬときは、必ず軍律に照らして、その首を陣門に梟けるであろうことを、よく胸に銘記しておけよ」
と、ひとまずゆるした。
龐徳の胸中には察すべきものがある。彼は、怏々と楽しまぬものを抱いて、ぜひなく再び戦場へ出た。
「つらいかな一日の恩!」
彼は、あえて無謀な戦闘へ突入した。悲壮な自滅を覚悟したものとみえる。単騎、敵陣へ深く斬り入って帰ろうとしなかった。
「なにを!」
龐徳は、丘へ向って、馬を躍らせた。まさしく、またなき死出の道づれと眼をつけたものであろう。
しかるに、彼は忽然と、丘のふもとで、その影を地上から失ってしまった。深さ二十尺もある陥し穽の底へ、馬もろとも落ちてしまったのである。
――伝え聞いた張魯は、
「全市全城を焼き払おう」と、焦土戦術を主張し、楊松は反対して、
「すみやかに降伏し給え」と、無血譲渡をすすめた。
張魯は、顛倒の中にも、
「国財は、民の膏血から産れた国家の物である。私にこれを焼棄するは、天を怖れぬものだ」
と、よく事理を分別して、城内の財宝倉廩に、ことごとく封を施し、一門の老幼をつれて、その夜二更の頃、南門から落ちのびた。
占領後、曹操は、
人を巴中に派して、もし降参するなら、一族は保護してやろうと云い送った。
楊松は、すすめたが、張衛は何としてもきかない。勝ち目のない抗戦をつづけ、我から求めて討死してしまった。
もちろん楊松が側についていた。楊松は内心、自分の功を、非常に高く評価している顔つきである。
なお、旧臣のうち、五人を選んで、列侯に加えたが、その中に、閻圃の名はあったが、楊松の名は洩れていた。
楊松は、ひそかに自負すらく、
「おれには、もっと大きな恩爵が、やがて沙汰されるにちがいない」――と。
漢中平定の祝賀日。
街の辻に、首斬りが行われた。罪人の首は細々と痩せている。見物人は物を喰いながら、早く細首を落せと面白そうに騒いでいた。うらめしげに罪人は、見物人を見まわした。なんぞはからん、それが楊松であった。