破軍星
一
七夕の宵だった。
城内の街々は、紅燈青燈に彩られている。
すると、夜も更けてきた頃、一つの大きな星が、怪しい光芒をひいて、西の空へ飛んだと思うと、白い光煙をのこして、ぱっと砕けるごとく、大地へ吸いこまれた。
「ああ、破軍星」
孔明は、杯を落して、哀しいかなと、ふいに叫んだ。
満座の人々は、酔をさまして、
「軍師、なにをそのように、悲しまれるのですか」と、皆杯を下にした。
「諸公。今日からは皆、かならず遠くへ出給うな。凶報かならず数日のうちに到らん」
と、予言した。
さらに、玄徳の書簡を出した。
「関羽、貴公と関平とで、あとの留守を固め、東は呉に備え、北は曹操を防ぎ、君公のご出征中を、寸地もゆずらず守っていてくれまいか。この大任は、蜀に入って戦う以上の大役である。貴公に嘱するほか他に人はない。むかし、桃園の義を、ここに思い、この難役に当ってくれい」
「桃園の義を仰せられては一言の否みもありません。安んじて、蜀へお急ぎください。あとはひきうけました」
「では」
関羽は、拝受して、
「大丈夫、信をうけて、しばしなりと、一国の大事を司どるうえは、たとい死んでも、惜しみはない」と、感激していった。
「もちろん兵を二分して、二手にわかれ、一を撃破し、また一を討ちます」
「危ない、危ない。それがしが、八字を以て、貴公に教えておく」
「八字の兵法とは」
「なるほど……。肺腑に銘じて忘れぬようにいたします」
「たのむ」
すなわち印綬の授受はすんだ。
張飛をその大将とし、峡水の水路と、嶮山の陸路との、二手になってすすんだ。
二道に軍を分って立つ日、野宴を張って、
「どっちが先に雒城へ着くか、先陣を競おう。いずれも、健勝に」
と、杯を挙げて、おたがいの前途を祝しあった。
二
「蜀には、英武の質が多い。貴下のごとき豪傑は幾人もいる。加うるに地は剣山刀谷である。軽々しく進退してはならない。またよく部下を戒め、かりそめにも掠め盗らず虐げず、行くごとに民を憐れみ、老幼を馴ずけ、ただ、徳を以て衆にのぞむがいい。なおまた、軍律はおごそかにするとも、みだりに私憤をなして士卒を鞭打つようなことはくれぐれ慎まねばならぬ。そして迅速に雒城へ出で、めでたく第一の功を克ち取られよ」
張飛は拝謝して、勇躍、さきへ進んだ。
彼の率いた一万騎は、漢川を風靡した。しかし、よく軍令を守って、少しも略奪や殺戮の非道をしなかったので、行く先々の軍民は、彼の旗をのぞんでみな降参して来た。
やがて巴郡(重慶)へ迫った。
蜀の名将厳顔は、老いたりといえど、よく強弓をひき太刀を使い、また士操凛々たるものがあった。
張飛は、城外十里へ寄せて、使いを立て、
「厳顔老匹夫。わが旗を見て、何ぞ城を出て降らざるや。もし遅きときは、城郭をふみ砕いて、満城を血にせん」
と云い送った。
「笑止なり。放浪の痩狗」
厳顔は、使いの耳と鼻を切って、城外へつまみ出した。張飛が赫怒したことはいうまでもない。
「みろ。きょうの中にも、巴城を瓦礫と灰にしてみせるから」
まっ先に馬をとばし、空壕の下に迫った。
「その舌の根を忘れるな」と日没まで猛攻をつづけた。
しかし、頑として、城は墜ちない。無二無三、城壁へとりついて、攀じ登ろうとした兵も、ひとり残らず、狙い撃ちの矢石にかかって、空壕の埋め草となるだけだった。
「先頃、使いの口上で、満城を血にせんといったのは、さては、寄手の血漿をもって彩ることでありしか。いや見事見事。ご苦労ご苦労」と、からかった。
張飛の顔は朱漆を塗ったように燃えた。その虎髯の中から大きく口をあいて、
「よしっ。汝を生捕って、汝の肉を啖わずにはおかんぞ」
云った途端である。
厳顔の引きしぼった強弓の弦音が朝の大気をゆすぶって、ぴゅっと、一矢を送ってきた。張飛が、
「あっ」
と、馬のたてがみへ、身を伏せたので、矢は彼の甲の脳天にはね返った。
幸いにも、鉢金は射抜けなかったが、じいんと烈しい金属的な衝撃が脳髄から鼻ばしらを通って、眼から火となって飛びだしたような気がした。
さすがの張飛も、ふらふらと眩いを覚えて、
「きょうはいかん」と、匆々、後陣へかくれてしまった。
「なるほど、蜀には相当な者がいる」
張飛が敵に感心したことはめずらしい。しかし、敵を尊敬することによって、彼も、ただ力ずくな攻城がいかに労して効の少ないものかを教えられた。
城の一方にかなり高い丘陵がある。ここに登って彼は城内をうかがった。城兵の部署隊伍は整然としていて甚だ立派だ。張飛は、声の大きな部下を選んで、ここからさまざまな悪口を城中へ放送させた。
けれど、城の者は、一人も出てこないし、相手にもならない。
誘いの兵を少しばかり近づかせて、偽って逃げる態をなし、城兵が追ってきたら、たちまちこれを捕捉し、またそこの門から一気に突入しようなどという計画も行ってみたが、
「彼の戦法は、まるで児童の戦遊び、抱腹絶倒に値する」
と、厳顔は、一笑のもとに、その足掻を見ているだけで、張飛の策にはてんで乗ってこないのであった。