弘農
弘農(こうのう)とは
土地の歴史
関連する人物
三国志での文脈
吉川版では、董卓による遷都の際、弘農は皇帝が一時とどまる地として言及される。物語全体においては大きな舞台ではないが、漢王朝の漂泊と衰退を象徴する地名のひとつとなっている。
董卓は、剣を片手に、 。「今、李儒が読み上げた通り、帝は闇愚にして威儀なく、太后は教えにくらく母儀の賢がない。――依って今日より、現帝を弘農王とし、何太后は永安宮に押しこめ、代るに陳留王をもって、われらの皇帝として奉戴する」 。 いいながら、帝を玉座から引き降ろして、その璽綬を解き、北面して臣下の列の中へ無理に立たせた。 そして、泣き狂う何太后をも、即座にその后衣を剥いで、平衣とさせ、後列へしりぞけたので、群臣も思わず眼をおおうた。
衛兵は、聞くと、その詩を覚え書にかいて、 。「相国。廃帝の弘農王が、こんな詩を作って歌っていました」 。 と、密告した。董卓は、それを見ると、 。
帝は張済の功を嘉し、張済を驃騎将軍に命じた。「長安は大廃しました。弘農(陝西省・西安附近)へお遷りあってはいかがです」 。 張済のすすめに、帝も御心をうごかした。 帝には、洛陽の旧都を慕うこと切なるものがあった。
ちっとばかり、行儀を良くしなくッちゃいけねえぞ」 。 と、訓令して、馳せつけた。 味方を得て、御車はふたたび、弘農をさして急いだ。途上、たちまち郭と李の聯合勢とぶつかった。 彼らの軍にも、土匪山賊がまじっている、猛獣と猛獣の咬みあいだ。
年の頃まだ二十四、五歳。神貌清白、眉ほそく、眼すずやかである。これなん弘農の人で、一門から六相三公を出している名家楊震の孫で、楊修、字は徳祖という。いま曹操に仕えて、楊郎中といわれ、内外倉庫の主簿を勤めていた。「外国の使臣といえ、黙って聞いておれば、怪しからんことをいう。