潁川
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「潁川」登場回数
合計: 20回「潁川」が登場する場面
7件太医吉平
いまの彼は曹操の片腕ともいうべき存在であった。 その荀彧は、ではどんなに老成した人物かというと、曹操より七ツも年下で、まだ三十だいの人物だった。 潁川の産れで家柄はよく、後漢の名家の一つで、傑士荀淑の孫にあたっている。 名家の子や孫に、英俊はすくないが、荀彧はまだ学生の頃からその師何顒に、 。「王佐の才である」と、歓称されていた。
檻車
張飛も、ぱっと、玄徳の前へ駒を躍らせて、万一をかばいながら、 。「なんだっ、虫けら」と、いい返した。 いわずともよい言葉であったが、潁川以来、とかく官兵の空威ばりに、業腹の煮えていたところなので、つい口をついて出てしまったのである。 石は石を打って、火を発した。「なんだと、官旗に対して、虫けらといったな」 。
毒と毒
一銭を盗めば賊といわれるが、一国を奪れば、英雄と称せられる。 当時、長安の中央政府もいいかげんなものに違いなかったが、世の中の毀誉褒貶もまたおかしなものである。 曹操は、自分の根城だった兗州を失地し、その上、いなご飢饉の厄にも遭いなどして、ぜひなく汝南、潁川方面まで遠征して地方の草賊を相手に、いわゆる伐り奪り横行をやって苦境をしのいでいたが、その由、長安の都へ聞えると、朝廷から、 。(乱賊を鎮定して、地方の平穏につくした功によって、建徳将軍費亭侯に封じ給う) 。 と、嘉賞の沙汰を賜わった。
牛と「いなご」
――彼の兵馬はもう東へ東へと移動を開始していた。四。 その年の十二月、曹操の遠征軍は、まず陳の国を攻め、汝南(河南省)潁川地方(河南省・許昌)を席巻して行った。 ――曹操来る。 ――曹操来る。
琴を弾く高士
「――司馬徽、字は徳操。また道号を水鏡先生と申されます。生れは潁川ですから黄巾の乱なども、よく見聞しておいでになります」 。「平常、交わる友には、どんな人々があるか」 。「襄陽の名士はみな往来しております。
白面郎「曹操」
「あの弱冠の警吏は、犯すと仮借しないぞ」 。 彼の名はかえって高まった。 わずかな間に、騎都尉に昇進し、そして黄巾賊の乱が地方に起ると共に、征討軍に編入され、潁川その他の地方に転戦して、いつも紅の旗、紅の鞍、紅の鎧という人目立つ備え立てで征野を疾駆していたことは、かつて、張梁、張宝の賊軍を潁川の草原に火攻めにした折、――そこで行き会った劉玄徳とその旗下の関羽、張飛たちも、 。(そも、何者。) 。
秋風陣
一。 潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の朱雋も皇甫嵩も、賊軍を追いせばめて、遠く河南の曲陽や宛城方面へ移駐しているとのことであった。「さしも旺だった黄巾賊の勢力も、洛陽の派遣軍のために、次第に各地で討伐され、そろそろ自壊しはじめたようですな」 。