敵中作敵
一
「はて。何か?」
使いのもたらした書面をひらいてみると曹操の直筆にちがいなく、こうしたためてある。
乞ウ、一日、旧友韓遂トシテ来リ給エ。
「ああ、彼も、忘れずにいるか」
「やあ、ようこそ」
曹操はなぜか、内へ導かない。自分のほうから陣外へ出てきて、いとも親しげに、平常の疎遠を詫びた。
そしてなお、いうには、
「お忘れではあるまい。あなたの厳父とは、共に孝廉に挙げられ、少壮の頃には、いろいろお世話になったものだ。後あなたも都の大学を出、共に官途へ進んでからは、いつともなく疎遠に過ぎたが、今は、お幾歳になられるか」
「それがしも、すでに四十です」
「むかし、都にあって、共に、青春の少年であった時代は、よく書を論じ、家を出ては、白馬金鞍、花を尋ねて遊んだこともあったが、そのあなたも、はや、中老になられたか」
「丞相も、変りましたな。少し鬢にお白いものが見える」
「ははは。いつか、ふたたび太平の時を得て、むかしの童心に返ろうではないか。――おう今日は、折角、此方から書面しながら失礼ですが、幕中、折わるく諸将を会して要談中なので」
「いや、また会いましょう」
韓遂は、気軽に戻った。
この態を、見ていたものが、すぐ馬超へ、ありのままを話した。
「密談を」――韓遂は、眼をまろくしながら、顔の前で手を振った。
「青空の下の立ち話。密談などした覚えはない。また軍事については、爪の垢ほども、語りはしません」
「いや、貴公が云いださなくとも、曹操のほうから何か」
「少年時代、共に都にあった事どもを、二、三話して別れただけです」
「そうか。そんなに古くから、彼とは、親しい仲であられたのか」
「どう見えた。きょうの計は」
「妙趣、ご奇想天外です」
「西涼兵の眼に、映ったろうな」
「それには、どうしたらよいか」
「丞相からもう一度、親書を韓遂にあててお書きなさい」
「そうそう、用もないのに、書簡をやるのもおかしかろう」
「かまいません。文章をもって、相手を動かすのが目的ではありませんから。――文字などもわざと朧にしたため、肝要らしい所は、思わせぶりに、失筆で塗りつぶし、また削り改めたりなどして、一見、おそろしく複雑で重要そうに見えさえすればよろしいのです」
「むずかしいのう」
「兵馬を費うことを考えれば、そのくらいな労は、何ほどでもありますまい。必定、受取った韓遂も、一体、何だろうと、おどろき怪しんで、きっとそれを、馬超の所へ見せに行くに違いありません。ここまで来れば、はや計略は、成就したも同じことです」
二
腹心の者から、こう報らせがあったので、馬超は、
「何事ですか、おひとりで」
「いや、急に戦いもやんで、何やら手持ち不沙汰だから、一盞、馳走になろうかと思って」
「それならば、前もって、お使いでも下されば、何ぞ、陣中料理でもしつらえて、盞を洗ってお待ち申しておりましたのに」
「なに、こういうことは、不意のほうが興味がある。ひとつ貰おうか」
「恐縮です。このままの杯盤では」
「いやいや、構わん」と、一杯うけて、
「ときに、その後は、曹操から何か云ってきたかね」
「あれきり会いませんが、たった今、妙な書簡をよこしたので、飲みながら独りここへ置いて、判じ悩んでいるところです」と、卓の上にひろげてある書面へ眼を落して答えた。
馬超は、初めて、それへ気がついたような顔して、
「どれ、……」と、すぐ手を伸ばして取った。
「なんの意味やら、読解がおつきになりますまい。それがしにも分らないのですから」
馬超は返事も忘れてただ見入っていた。
辞句も不明だし、諸所に、克明な筆で、塗りつぶしたり、書入れがしてある。いかにも怪しげな書簡だ。馬超は袂へ入れて、
「借りて行くぞ」
「どうぞ……」とは答えたものの韓遂は妙な顔をしていた。――そんな物を何にする気かと。
「怪しからぬお疑い」と、韓遂も、色をなしたが、
「それで先頃からの、変なご様子の原因が解けました。言い訳もお耳には入りますまい」
「いや、申し開きがあるならばいってみたがいい」
「それよりは、事実をもって、君に対する信を明らかにします。明日、それがしが、わざと曹操の城寨を訪ね、過日のように、陣外で曹操と談笑に時を過しますから、あなたは附近に隠れて、不意に、曹操を討ち止めて下さい。曹操の首を挙げれば、それがしのお疑いなど、おのずから釈然と氷解して下さるでしょう」
「御身はきっと、それをしてみせるか」
「ご念には及びません」
曹操は先頃から、例の氷城にもどっている。取次ぎのことばを聞くと、
「曹仁。代りに出ろ」
と、居合わせた曹仁の耳へ、何かささやいた。
「いや、昨夜は、お手紙を有難う。丞相もたいへんよろこんでおられる。しかし、事前に発覚しては一大事、ずいぶんご油断なく、馬超の眼にご注意を」
云いすてると、さっと立ち去って、何いうまもなく、陣門を閉めてしまった。
三
悄然と、韓遂は自分の営へ、戻ってきた。
八旗の中の五人の侍大将たちが、早速やって来て慰めた。
「われわれは将軍の二心なき忠誠を知っています。それだけに心外でたまりません。馬超は勇あれど智謀たらず、所詮は曹操に敵しますまい。いっそのこと、今のうちに、将軍も曹操に降って、安身長栄の工夫をなすっては如何です」
「いやいや、それは将軍の片思いというもの。馬超のほうでは、かえって、あなたを邪視しているのに、そんな節義を一体たれに尽すつもりですか」
楊秋、李湛、侯選など、かわるがわる離反をすすめた。かの五旗の侍大将は、すでに馬超を見限っているもののようであった。
「成就、成就」
曹操は手を打ってよろこんだにちがいない。懇篤な返書とともに極めて綿密な一計をさずけて来た。すなわち曰う。
「いま招いても、馬超のほうでこれへ参るまい」
韓遂の心配はそこにある。
「いや、案外来るかもしれませんよ。将軍が、謝罪すると仰っしゃれば」
楊秋がいうと、侯選も、
「何といっても、若いところのある大将だから、口次第ではやって来ましょう」と、いう。
李湛もまた、
「弁舌をもって、きっと、馬超を案内して来ます。その点はわれわれにお任せ下さい」
と自負して云った。
では、時刻を待つとて、油幕を張り、枯柴を隠し、宴席の準備をした。そして韓遂を中心に、まず前祝いに一献酌み交わして、手筈をささやいていると、そこへ突然、
「反逆人どもっ。うごくな」と、罵りながら入ってきた者がある。
見ると、馬超ではないか。
「あっ。……これは」
「おのれっ、昨夜から、何を密議していたか」と、斬りつけた。
「どこへ逃げる」
追い廻していると、五旗の侍大将が、左右から馬超へ打ってかかって来た。
油幕の外は火になった。馬超は血刀をひっさげて、
血まなこに捜している。
彼の前をさまたげた馬玩は立ちどころに殺されたし、彼に従ってきた龐徳、馬岱なども、韓遂の部下を手当り次第に誅殺していた。ところがたちまち渭水を渡ってきた一陣、二陣、三陣の騎兵部隊が、ものもいわず、焔の中へ駈けこんで来て、
「馬超を生捕れっ」
「雑兵に眼をくれず、ただ、馬超を討て」
と、励まし合った。
「さてはすでに、手筈はととのっていたか」
彼ですらそれ程あわてたくらいだから、西涼勢の混乱はいうまでもなく、各所の陣営からは濛々と黒煙があがっていた。
日は暮れたが、焔は天を焦し、渭水のながれは真っ赤だった。