次男曹彰
一
「満身これ胆の人か」
と、今さらのように嘆称した。
(この敗辱をそそがでやあるべき)と、ひたすら軍の増強を急ぎつつあるという。
ここに巴西宕渠の人で、王平字を子均という者がある。この辺の地理にくわしいところから曹操に挙げられて、牙門将軍として用いられ、いま徐晃の副将として、共に漢水の岸に立って、次の決戦を計っていたが、徐晃が、
「河を渡って陣を取らん」というのに、王平は反対して、
「水を背にするは不利だ」と、互いに、意見を異にしていた。
けれど徐晃は、
と、ついに浮橋を渡して、漢水を越えてしまった。
一歩対岸を踏んだらば、必ず蜀の勢が鼓を鳴らして来るだろうと予測していたところ、一本の矢すら飛んで来ないので、徐晃は拍子抜けしながらも、敵の柵を破壊し、壕を埋め、さんざんに振舞って、やがて日没に近づくと、蜀の陣地へ対して、ある限りの矢を射た。
「ははあ、夜に入る前に、徐晃の手勢も退く気とみえます。あのようにむだ矢を射捨てている様子では」と、呟いて、その退路をおびやかすのは今だが、と身をむずむずさせていた。
「臆病者めが、ようやく今頃になって、居たたまれずに出てきたな」
徐晃は、蜀兵を見ると、終日の血の飢えを一気に満たさんとする餓虎のように喚きでた。
「まさしく黄忠。老いぼれ、またしても逃げるか」
敵の旗じるしを見て、彼は奮迅した。黄忠の部下は、一時、鼓を鳴らし、喊声をあげ、甚だ旺んに見えたが、もろくも潰えて、蜘蛛の子のように夕闇へ逃げなだれた。
「逃げ上手め、魏の徐晃が、それほど怖ろしいか」
「ひとりも生かして帰すな」と、叫びに叫ぶ。
「なんだって足下は、おれの後詰もせず、浮橋を焼かれるのを見ていたのだ。この報告は、つぶさに魏王へ申しあげるぞ」
王平は黙然と、彼の罵言にこらえていた。けれど彼は、その意見を異にした時から、すでに徐晃の無能を蔑み、魏軍に見限りをつけていたものとみえて、その夜深更自分の陣地に火を放つや、ひそかに脱して漢水を越え、部下と共に、蜀へ投降してしまった。
「招かずして、王平が降ってきたのは、われ漢水を取る前表である」
と、玄徳は彼を容れて、偏将軍に封じ、もっぱら軍路の案内者として重用した。
二
孔明がいう。
「この上流に、七丘をめぐらして、一山をなしている山地があります。蓮華の如く、七丘の内は盆地で、よく多数の兵を匿すことができる。銅鑼鼓を持たせ、あれへ兵六、七百を埋伏させておけば、必ず後に奇功を奏しましょう」
「誰をやればよいか」
魏兵も、より以上、軽々しく進出はしなかった。夜に入るとことごとく陣に収まり、篝火もかすかに、自重していた。
すると突然真夜半の静寂を破って、一発の石砲がとどろいた。銅鑼、鼓、喊呼などを一つにして、わあっッという声が一瞬天地を翔け去った。
「すわっ、夜襲だぞ」
「いや、敵は見えぬ」
「近くもなし、遠くもない?」
上を下への騒動である。曹操は安からぬ思いを抱いて、四方の闇を見まわしていたが、彼にも何の発見もなかった。
「いたずらに騒ぐをやめよ。立ち騒ぐ兵どもを眠らせろ」
三日のあいだ、毎晩である。曹操は士卒がみな寝不足になった容子を昼の彼らの顔に見て、
「これはいかん」
急に、三十里ほど退いて、曠野のただ中に、陣を営み直した。
孔明は笑って、
四日目の夜が明けてみると、蜀の軍は、その先鋒から中軍もみな河を渡り、漢水をうしろに取って陣容を展開していた。
「なに、背水の陣をとったと」
曹操は、疑いもし、かつ敵の決意のただならぬものあるを覚って、今は、乾坤一擲、蜀魏の雌雄をここに決せんものと、
「明日、五界山の前にて会わん」と、玄徳へ戦書を送った。
戦書、すなわち決戦状である。玄徳もこころよく承知した。次の日、総軍の威風をあらゆる軍楽と旌旗に誇示しながら、蜀は前進した。
たちまち、真紅金繍の燃ゆるごとき魏の王旗を中心に、龍鳳の旗を立て列ね、一鼓六足、堂々とあなたから迫ってくるもの――いうまでもなく魏の大軍だった。
「玄徳。あるや」
「久しや曹操。君はむなしく、今日を以て、死なんとするのか」
曹操は怒って云い返した。
「だまれ。予は汝の忘恩を責め、逆罪をただしに来たのだ」
戦線数里にわたる大野戦はここに展開された。午の刻過ぎるまで、魏の大捷をもって終始した。蜀の兵は、馬ものの具を捨てわれがちに潰走しだした。
「追うな、退き鉦打て」
ところが、魏が軍を退くと、果然、蜀は攻勢に転じてきた。どうも事ごとに、曹操は、自分の智慧と戦ってその智に敗れているかたちだった。
三
蜀の大軍は、すでに南鄭、閬中、褒州の地方にまで浸透して来て、宣撫や治安にまで取りかかり、遺漏のない完勝ぶりを示していた。
「この際、彼処の兵粮まで、蜀兵に奪われたら一大事である、汝よく兵粮奉行の手勢と力を協せて、危地にある兵粮全部を、後方の安全な地点へ移してこい」といいつけた。
「このご来援がなかったら、おそらくあと二日か三日の間には、ここにある兵粮軍需品、すべて蜀の手へ奪られていたに違いありません」と、いった。
「安心しろ。万夫不当の許褚がついて行くのだ。今夜は月もよいから山道を歩くにいい。早々、馬匹車輛を押し出せ」と、促した。
宵に出て、夜半頃、この蜿蜒たる輜重の行軍は、褒州の難所へかかった。すると谷間から、一軍の蜀兵が、突貫して来た。
「敵は下の渓にいる。岩石を落してみなごろしにしろ」
地の利をとって戦う気でいるといずくんぞ知らん、自分たちの頭の上から先に岩や石ころが落ちてきた。
伏兵は、山の上下にいる。寸断された百足虫のように、輜重車は、なだれくだって、谷間のふところへ出た。ここにも待っていた一隊の敵があった。許褚の影を見かけるや否、その敵将は、迅雷一電、
「許褚っ。さあ来いっ」
大矛をさしのべて、許褚の肩先を突いた。
不覚にも許褚は、戦わないうちに、痛手をうけたのみか、どうと馬からころげ落ちた。
「すでに、北の門を出、斜谷をさして、退却しておられる」
と味方の一将に聞いて、許褚は事態の急に愕きながら、ひたすら主君を追い慕った。
彼は馬上にそれを見、
「やや、あれも孔明の伏兵か。もしそうであったら、我も生きる道はない」と、色を失った。
ところがそれは、彼の次男曹彰が、五万の味方をひきつれて、これへ駈けつけて来たものだった。曹彰は父とはべつに代州烏丸(山西省・代県)の夷の叛乱を治めに行っていたのであるが、漢水方面の大戦、刻々味方に不利と聞き、あえて父の命もまたず、夜を日についで加勢に向ってきたのだった。
「なに、北国の乱も平げた上、さらに、父の加勢にきたというか。ういやつ、ういやつ。勇気はそれだけでも百倍する。もう玄徳に負けるものか」
よほどうれしかったとみえ、曹操は馬上から手をさしのべてわが子の手を握り、しばらくその手を離さなかった。