渭水を挟んで
一
曹軍は、三軍団にわかれ、曹操はその中央にあった。
「胡夷の子、朝威を怖れず、どこへ赴こうとするか。あらば出でよ、人間の道を説いてやろう」
曹操の言が、風に送られて、彼方の陣へ届いたかと思うと、
とどろく答えとともに、陣鼓一声、白斑な悍馬に乗って、身に銀甲をいただき鮮紅の袍を着、細腰青面の弱冠な人が、さっと、野を斜めに駈けだして来た。
「あれか。馬超とは」
「やよ。馬超」
「おうっ。曹操か」
「汝は、国あって、国々のうえに、漢の天子あるを知らぬな」
「だまれ、天子あるは知るが、天子を冒して、事ごとに、朝廷をかさに着、暴威をふるう賊あることも知る」
「中央の兵馬は、即ち、朝廷の兵馬。求めて、乱賊の名を受けたいか」
「盗人猛々しいとは、その方のこと。上を犯すの罪。天人倶にゆるさざる所。あまつさえ、罪もなきわが父を害す。誰か、馬超の旗を不義の乱といおうぞ」
いうことも、しっかりしている。これは口先でもいかんと思ったか、曹操は馬を退いて、
「あの童を生捕れ」と、左右の将にまかせた。
そして、悠々、槍をあげて、
「おおういっ……」と一声さしまねくと、雲霞のようにじっとしていた西涼の大軍が、いちどに、野を掃いて押し襲せてきた。
その重厚な陣、ねばり強い戦闘力、到底、許都の軍勢の比ではない。
「この手に、曹操の襟がみを、引っつかんでみせる」
と、乱軍をくぐり、敵の中軍へ割りこみ、血まなこになって、その姿を捜し求めた。
そのとき、西涼の兵が、口々に、
「紅の戦袍を着ているのが、敵の大将曹操だぞ」
と、呼ばわり合っているのを聞いて、当の曹操は逃げはしりながら、
「これは目印になる」と、あわてて戦袍を脱ぎ捨ててしまった。
するとなお執拗に追いかけて来る西涼兵が、
曹操は、自分の剣で、自分の髯を切って捨てた。
「髯の長いのを目あてに捜してもだめです。曹操は髯を切って逃げました」と、教えた。
そのとき、曹操は、乱軍の中にまじって、すぐそばを駈けていたので、そのことばを小耳に挟むと、
「これはいかん」と、あわてたものとみえ、旗を取って面を包み、無二、無三、鞭を打った。
「首を包んだものが曹操だぞ」
二
「きょうの乱軍に、絶えず予の後ろを守って、よく馬超の追撃を喰い止めていたのは誰だ」
曹操は、味方の内へ帰ると、すぐこう訊ねた。
夏侯淵が答えて
「曹洪です」
というと、曹操はさもありなんという顔して、うれし気に、
「そうか。たぶん彼だろうとは思ったが……。先日の罪は、今日の功をもって宥しおくぞ」
「自分も幾度となく、戦場にのぞみ、また惨敗をこうむったこともあるが、およそ今日のような烈しい戦いに出合ったことはない。馬超という者は敵ながら存外見上げたものだ。決して汝らも軽んじてはならぬ」と戒めた。
敗軍をひきまとめた曹操は、河を隔てて岸一帯に逆茂木を結いまわし、高札を立てて、
「みだりに行動する者は斬る」と、軍令した。
建安の秋十六年、その八月も暮れかけていたが、曹軍は、秋風の下に寂と陣して固く守ったまま、一戦も交えなかった。
「胡夷の兵め。また対岸で悪口を放っているな。いまいましい奴らだ」
業を煮やした曹軍の諸将が、ある時、曹操をかこんで、
「いったい北夷の兵は、長槍の術に長け、また馬の良いのを持っているので、接戦となると、剽悍無比ですが、弓、石火箭などの技術は、彼らのよくするところでありません。ひとつ、もっぱら弩をもって一戦仕掛けては如何でしょう」と、進言した。
すると、曹操は苦りきって、
「戦うも、戦わぬも、みなその腹一つにあることで、何も敵の心にあるわけじゃない」と、云い、そしてまた、
「下知に反くものは、軍罰に処すぞ。ただ部署について、守りを固うし、一歩も陣外へ出てはならん」と、再度の布令を出した。
曹操の肚をふかく察しない部将たちは、ささやき合って、首を傾げた。
「どうしたんだろう。いくら馬超に追いまくられて、お懲りになったからといえ、今度に限って、ひどく消極戦法の一点張りじゃないか」
「そろそろ、お年齢のせいかも知れんよ、銅雀の大宴を境として、お髪にもすこし白いものが見えてきたしな。……花にも人間にも、盛衰はある、春秋は拒まれぬ」
果たして、曹操には、もうそのような老いが訪れだしたのだろうか。
凡人の客観と、英雄自身の主観とにはおのずから隔たりもあり、信念のちがいもある。
われ老いたり、などとは曹操自身、まだ、夢にも思っていないらしい。いやその肉体や精神のつかれ方などに、若い頃の自身とくらべて、多分な相違が自覚されても、おそらく、彼自身そんな気持がふとでも湧くときは、強いてそれを抑圧して、
我なお若し!
という血色をみなぎらそうと努めているのにちがいなかった。
数日の後、味方の斥候がこう告げた。
聞くと、曹操は、なぜか独り大いに笑った。
「丞相何でお笑いなさるのですか。敵が強力になったと聞かれて」
ひとりが問うと、
「まず、酒宴して、祝おうか」と、のみで、その夕べ、大いに慶賀して、共に盃を傾けた。
しかし、今度は、幕将たちのほうがくすくす笑った。
曹操は酔眼を向けて、
「卿らは、予が、馬超を討つ計がないのを笑うのであろう」
みな恐れて口をつぐんでしまった。曹操は追求して、
「ひとを笑うほどな計策のある者は、大いにここで蘊蓄を語れ。予も聞くであろう」と、いった。
三
みな顔を見あわせた。
ひとり徐晃は進んで、忌憚なく答えた。
「このまま、潼関の敵と睨みあいしていたら、一年たっても勝敗は決しますまい。それがしが考えるには、渭水の上流下流は、さしもの敵も手薄でしょうから、一手は西の蒲浦を渡り、また丞相は河の北から大挙して越えられれば、敵は前後を顧みるにいとまなく、陣を乱して潰滅を早めるにちがいないと思いますが……」
「徐晃の説は大いに良い」
曹操は賞めて、
と、即座に手筈をきめた。
「曹操のほうでは、船筏を作ってしきりと渡河の準備をしています」という情報をもたらした。
韓遂は手を打って、
「若将軍、敵は遂に、自ら絶好な機会を作ってきましたぞ。兵法にいう。――兵半バヲ渉ラバ撃ツベシ――と」
「ぬかるな、諸将」
八方に間者を放って、曹軍が河を渡る地点を監視していた。
「まず、首尾はよさそうだ」
と、水ぎわに床几をすえながら、刻々と報らせて来る戦況を聞いていた。
「上陸したお味方は、すでに対岸の要所要所、陣屋を組み、土塁を構築しにかかっています」
すると、第二第三とつづいてくる伝令が云った。
「今、南の方から、敵ともお味方とも分らぬ一隊が、馬煙をあげて、これへ来ます」
第五番目の伝令は、
「ご油断はなりません。ご用意あれっ」と呶鳴って、
「白銀の甲、白の戦袍を着た大将を先頭にし、約二千ばかりの敵が、どこを渡ってきたか、逆襲してきます。――いや、うしろのほうからです」と狼狽していう。
その時、大軍は河を渡りつくして、曹操のまわりには、たった百余人しかいなかった。
「馬超ではないか」
愕然と、人々は騒ぎ立ったが、剛復な曹操は、
「騒ぐな」と、のみで床几から起とうともしない。
ところへ、許褚が船を引返してきて、その態を見るやいな、
「丞相丞相。敵は早くも、味方の裏をかいて、背後に廻っていますっ。早くお船へお移り下さい」と、呼ばわった。
曹操はなお、
「馬超が来たとて、何ほどのことがあろう。一戦を決するまで」
「おうっ」
と叫んで、一跳びに身を躍らせ、危うくも舟の中へ乗り移った。
「たかるな。舟が傾く」
許褚は、それらの味方を、棹で払い退けながら、逃げ出したが、水勢は急で、見るまに下流へ押しながされて行く。
「のがすな」
「あれこそ、曹操」
四
曹操ですら九死に一生を得たほどであるから、このほか、いたる所で、曹軍の損害はおびただしいものがあった。
渭水の流れがたちまち赤く変じたのでも分る。浮きつ沈みつ流れてくる人馬はほとんど魏の兵であった。
それでも、この損害は、まだ半分で済んでいたといってよい。なぜならば、曹軍の敗滅急なりと見て、ここに渭南の県令丁斐という者が、南山の上から牧場の牛馬を解放して、一散に山から追い出したのである。奔牛悍馬は、止まる所を知らず、西涼軍の中へ駈けこんで暴れまわった。
いや、暴れただけなら、何も戦闘力を失うほどでもなかったろうが、根が北狄の夷兵であるから、
「良い馬だ。もったいない」と、奪いあい、牛を見ては、なおさらのこと、
「あの肉はうまい」と、食慾をふるい起して、思いがけない利得に夢中になってしまったものだった。
そのために西涼軍は、せっかくの戦を半ばにして、角笛吹いて退いてしまった。
「丞相はおつつがないか」と、そればかり口走っていた。
「貴体には何のご異状もない」と、人々は慰めて、ようやく彼を陣屋の中に寝かしつけた。
曹操は、部下の見舞をうけながら、甚だしく快活に、終始きょうの危難を笑いばなしに語っていたが、
「そうそう、渭南の県令を呼んでくれ」と、丁斐を召し寄せ、
「今日、南山の牧を開いて、官の牛馬をみな追い出したのはおまえか」と、質した。
丁斐は、当然、罪をこうむるものと思って、
「私です。ご処罰を仰ぎます」
と、悪びれずにいった。
「処分してやる」
と、曹操は祐筆をかえりみて何かいった。祐筆はすぐ一通の文をしたためて来て、丁斐に授けた。
「丁斐、披見してみろ」
丁斐が畏る畏る開いてみると、今日ヨリ汝ヲ典軍校尉ニ命ズ、という辞令であった。
校尉丁斐は、感泣して、
「長くこの渭南に県令としておりましたので、いささか地理には精通しています。鈍智の一策をお用い賜わらば、光栄これに過ぎるものはありません」
と、恩に感じるのあまり、自分の考えている一計略を進言した。
「きょうばかりは、残念だった」と、韓遂に向って、無念そうに語っていた。
韓遂は何度もうなずいて、
「それは道理です。あれは有名な魏の一将、許褚ですからね」
「許褚というか」
「お味方に、八旗の旗本ある如く、曹操もその旗本の精鋭中の精鋭を選び、これを虎衛軍と名づけて、常に親衛隊としていました。その大将に二名の壮将を置き、ひとりは陳国の人、典韋と申し、よく鉄の重さ八十斤もある戟を使って、勇猛四隣を震わせていましたが、この人はすでに戦歿して今はおりません。その残るひとりが譙国の人、すなわち許褚です。強いわけですよ」
「なるほど、それでは――」
「その力は、猛る牛の尾を引いてひきもどしたという程ですからな。――で世間のものは、彼を綽名して、虎痴といっています。また、虎侯ともいうそうです」
「以後は、あの男を陣頭に見ても、一騎討ちはなさらないほうがよろしい」
五
韓遂は重ねて云った。
馬超も同感だった。
「いかにも、攻めるなら今のうちだが」
「よし。防ぐには、自分一手で足りる。御身ひとりでは心もとない。龐徳をも連れて行かれるがよかろう」
けれど、この計画は、まんまと曹操の思うつぼに落ちたものであった。かねてこの事あるべしと、曹操は、渭南の県令から登用した校尉丁斐の策を用いて、河畔の堤の蔭に沿うて仮陣屋を築かせ、擬兵偽旗を植えならべて、実際の本陣は、すでにほかへ移していたのである。
のみならず、附近一帯に、塹をめぐらし、それへ棚をかけて、また上から土をかぶせ、陥し穽を作っておいたのを、西涼勢はそうとも知らず、
「わあっ」
と喊声をあげながら殺到したのだった。
当然、大地は一時に陥没し、人馬の落ちた上へ、また人馬が落ち重なった。
阿鼻、叫喚、救けを呼ぶ声、さながら桶の泥鰌を見るようだった。
「しまった」
龐徳は、手足にからむ味方を踏みつぶして、ようやく坑から這い出して、坑口から槍の雨を降らしている敵兵十人余りを一気に突き伏せ、
と、呼びながら、主将のすがたを捜していた。
そのうちに、敵の曹仁の一家曹永というものに出合った。
龐徳は、渡り合って、一刀のもとに、曹永を斬り伏せ、その馬を奪って、さらに、敵の中へ、猛走して行った。
何にしても、この奇襲は、大惨敗に終ってしまった。
敗軍を収めてから、馬超が損害を調べてみると、千余騎のうち三分の一を失っていた。
しかし壮気さかんな馬超は、
「こうなれば、なおさら、曹操が野陣しているうちに撃破してしまわねば、永久に味方の勝ち目はない」
ところが、さすがに曹操は、百錬の総帥だけあって、
「今夜、また来るぞ」と、それを予察していた。
「やや。空陣だ」
「さては」
と、空を搏ってうろたえた悍馬や猛兵が、むなしく退き戻ろうとするとき、一発の轟音を合図に、四面の伏勢がいちどに起って、
「馬超を生かして還すな」と、ひしめいた。