潁川
潁川(えいせん)とは
歴史的背景
人物の出身
六。 盧植がいうには、 。 ――そもそもこの地方は、嶮岨が多くて、守る賊軍に利があり、一気に破ろうとすれば、多大に味方を損じるので、心ならずも、こうして長期戦を張って、長陣をしている理であるが、折入って、貴下に頼みたいというのは、賊の総大将張角の弟で張宝・張梁のふたりは目下、潁川(河南省・許昌)のほうで暴威をふるっている。 その方面へは、やはり洛陽の朝命をうけて、皇甫嵩・朱雋の二将軍が、官軍を率いて討伐に向っている。 ここでも勝敗決せず、官軍は苦戦しているが、わが広宗の地よりも、戦うに益が...
張飛も、ぱっと、玄徳の前へ駒を躍らせて、万一をかばいながら、 。「なんだっ、虫けら」と、いい返した。 いわずともよい言葉であったが、潁川以来、とかく官兵の空威ばりに、業腹の煮えていたところなので、つい口をついて出てしまったのである。 石は石を打って、火を発した。「なんだと、官旗に対して、虫けらといったな」 。
一。 潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の朱雋も皇甫嵩も、賊軍を追いせばめて、遠く河南の曲陽や宛城方面へ移駐しているとのことであった。「さしも旺だった黄巾賊の勢力も、洛陽の派遣軍のために、次第に各地で討伐され、そろそろ自壊しはじめたようですな」 。
「あの弱冠の警吏は、犯すと仮借しないぞ」 。 彼の名はかえって高まった。 わずかな間に、騎都尉に昇進し、そして黄巾賊の乱が地方に起ると共に、征討軍に編入され、潁川その他の地方に転戦して、いつも紅の旗、紅の鞍、紅の鎧という人目立つ備え立てで征野を疾駆していたことは、かつて、張梁、張宝の賊軍を潁川の草原に火攻めにした折、――そこで行き会った劉玄徳とその旗下の関羽、張飛たちも、 。(そも、何者。) 。
そして再拝しながら起ちかけると、張飛は、 。「だからおれがいわぬことじゃない」と、ぶつぶついった。「彼奴が黄巾賊の討伐に南下していた頃、潁川の陣営で、おれが董卓を殺そうとしたのに、兄貴たちが止めたものだから、今日こんなことになってしまった。――あの折、おれに董卓を殺させてくれれば、今の乱は、起らなかったわけだ」 。 玄徳は、聞き咎めて、 。
――どうかよろしく」 。 曹操は、眼をみはって、 。「オオ、ではかつて、黄巾の乱の折、広宗の野や潁川地方にあって、武名を鳴らした無名の義軍を率いていた人か」 。「そうです」 。「道理で――どこかで見たことがあるような気がしていたが。
――彼の兵馬はもう東へ東へと移動を開始していた。四。 その年の十二月、曹操の遠征軍は、まず陳の国を攻め、汝南(河南省)潁川地方(河南省・許昌)を席巻して行った。 ――曹操来る。 ――曹操来る。