白馬の野
一
劉備玄徳は、毎日、無為な日に苦しんでいた。
なんといっても居候の境遇である。それに、万里音信の術も絶え、敗亡の孤を袁紹に託してからは、
「わが妻や子はどうなったか。ふたりの義弟はどこへ落ちたのか……」
思い悩むと、春日の長閑な無事も悶々とただ長い日に思われて、身も世もないここちがする。
「上は、国へ奉じることもできず、下は、一家を保つこともできず、ただこの身ばかり安泰にある恥かしさよ……」
ひとり面をおおって、燈下に惨心を噛む夜もあった。
水は温み、春園の桃李は紅唇をほころばせてくる。
――ああ、桃の咲くのを見れば、傷心はまたうずく。桃園の義盟が思い出される。
天空無心。
仰ぐと、一朶の春の雲がふんわりと遊んでいる。
玄徳は、仰視していた。
――と、いつのまにか、うしろへ来て、彼の肩をたたいた者がある。袁紹であった。
「ご退屈であろう。こう春暖を催してくると」
「おおこれは」
「其許にちとご相談があるが、忌憚ない意見を聞かしてもらえるかの」
「なんですか」
「実は、愛児の病も癒え、山野の雪も解けはじめたから、多年の宿志たる上洛の兵を催して、一挙に曹操を平げようと思い立った。――ところが、臣下の田豊が、儂を諫めていうには、今は攻めるよりも守る時期である。もっぱら国防に力をそそぎ、兵馬を調練し、農産を内にすすめて、坐りながらに待てば許都の曹操はここ二、三年のうちにかならず破綻をおこして自壊する。その時を待って一挙に決するが利じゃ――と申すのだが」
「なるほど、安全な考えです。けれど田豊は学者ですから、どうしても机上の論になるのでしょう。私ならそうしません」
「其許ならどうするか」
「時は今なりと信じます。なぜならば、なるほど曹操の兵馬は強堅ですし、彼の用兵奇策は侮りがたいものですが、ここようやく、彼も慢心をきざし、朝野の人々にうとまれ、わけて先頃、国舅の董承以下、数百人を白日の都下に斬ったことなど、民心も離反しているにちがいありません。儒者の論に耳をとられて、今を晏如として過ごしていたら、悔いを百年にのこすでしょう」
「……むむ、そうか。そういわれてみると、田豊はつねに学識ぶって、そのくせ自家の庫富を汲々と守っている性だ。彼はもう今の位置に事足りて、ただ余生の無事安穏を祈っておるため、そんな保守的な論を儂にもすすめるのかもしれん」
「これは誰か、主君をそそのかした蔭の者があるにちがいない」
「不吉なやつだ! 獄へ下せ」と、厳命してしまった。
「おのおの一族の兵馬弩弓をすぐッて、白馬の戦場へ会せよ」と、令した。
二
四州の大兵は、続々、戦地へ赴いた。
さすが富強の大国である。その装備軍装は、どこの所属の隊を見ても、物々しいばかりだった。
こんどの出陣にあたっては、おのおの一族にむかって、
「千載の一遇だぞ」と、功名手柄を励ましたが、ひとり沮授の出陣だけは、ひとと違っていた。
「世の中は計りがたい」と、ひどく無常を感じ、一門の親類をよんで、出立の前夜、家財宝物など、のこらず遺物わけしてしまった。
そしてその別辞に、
「こんどの会戦は、千に一つも勝ち目はあるまい。もし僥倖にめぐまれてお味方が勝てば、それこそ一躍天下を動かそう。敗れたら実に惨たるものだ。いずれにせよ、沮授の生還は期し難いと思う」と述べ、出立した。
沮授は、危ぶんで、
袁紹は、耳をかさない。
「こんな鮮やかに勝っている戦争をなんで変更せよというのか。あのとおり獅子奮迅のすがたを見せている勇将へ、退けなどといったら、全軍の戦意も萎えてしまう。そちは口を閉じて見物しておれ」
――一方。
国境方面から次々と入る注進やら、にわかに兵糧軍馬の動員で、洛中の騒動たるや、いまにも天地が覆えるような混雑だった。
その中を。
例の長髯を春風になびかせて、のそのそと、相府の門へいま入ってゆくのは関羽の長躯であった。
「日頃のご恩報じ、こんどの大会戦には、ぜひ此方を、先手に加えてもらいたい」と、志願して出た。
曹操は、うれしそうな顔したが、すぐ何か、はっと思い当ったように、
「いやいや何のこの度ぐらいな戦には、君の出馬をわずらわすにはあたらん。またの折に働いてもらおう。もっと重大な時でもきたら」と、あわてて断った。
余りにもはっきりした断り方なので、関羽は返すことばもなく、すごすごと帰って行った。
「宋憲宋憲。宋憲はいるか」
曹操の呼ぶ声に、
「はっ、宋憲はこれに」とかけ寄ると、曹操は何を見たか、いとも由々しく命じた。
宋憲は欣然と、武者ぶるいして、馬を飛ばして行ったが、敵の顔良に近づくと、問答にも及ばずその影は、一抹の赤い霧となってしまった。