軍師の鞭

 
 樊城へ逃げ帰った残兵は、口々に敗戦の始末を訴えた。しかも呂曠、呂翔の二大将は、いくら待っても城へ帰ってこなかった。
 すると程経てから、
「二大将は、残りの敗軍をひきいて帰る途中、山間の狭道に待ち伏せていた燕人張飛と名乗る者や、雲長関羽と呼ばわる敵に捕捉されて、各〻、斬って捨てられ、そのほかの者もみなごろしになりました」との実相がようやく聞えてきた。
 曹仁は、大いに怒って、小癪なる玄徳が輩、ただちに新野へ押し寄せて、部下の怨みをそそぎ、眼にもの見せてくれんといきり立ったが、その出兵に当って、李典にはかると、李典は断じて反対を称えた。
新野小城であるし彼の軍隊は少数なので、つい敵をあなどったため、呂曠、呂翔も惨敗をうけたものです。――何でまた、貴殿まで同じ轍を踏もうとなさるか」
李典。ご辺はそれがしもまた、彼らに敗北するものと思っておるのか」
玄徳は尋常の人物ではない。軽々しく見ては間違いでござる」
「必勝の信念なくしては戦に勝てぬ。ご辺は戦わぬうちから臆病風に吹かれておるな」
「敵を知る者は勝つ。怖るべき敵を怖るるは決して怯気ではない。よろしく、都へ人を上せて、曹丞相より精猛の大軍を乞い、充分戦法を練って攻めかかるべきであろう」
「鶏を割くに牛刀を用いんや。そんな使いを出したら、汝らは藁人形かと、丞相からお嗤いをうけるだろう」
「強って、進撃あるなら、貴殿は貴殿の考えで進まれるがよい。李典にはそんな盲戦はできぬ。城に残って、留守をかためていよう」
「さては、二心を抱いたな」
「なに、それがしに二心あると?」
 李典は、勃然といったが、曹仁にそう疑われてみると、あとに残っているわけにも行かなかった。
 やむなく、彼も参加して、総勢二万五千――先の呂曠、呂翔の勢より五倍する兵力をもって、樊城を発した。
 まず白河に兵船をそろえ、糧軍馬をおびただしく積みこんだ。檣頭船尾には幡旗林立して、千櫓いっせいに河流を切りながら、堂々、新野へ向って下江してきた。
 戦勝の祝杯をあげているいとまもなく、危急を告げる早馬はひんぴん新野の陣門をたたいた。
 軍師単福は立ちさわぐ人々を制して、静かに玄徳に会っていった。
「これはむしろ、待っていたものが自ら来たようなもので、あわてるには及びません。曹仁自身、二万五千余騎をひきいて、寄するとあれば、必定、樊城はがら空きでしょう。たとえ白河をへだてた地勢に不利はあろうとも、それを取るのは、掌のうちにあります」
「この弱小な兵力をもって、新野を守るのすら疑われるのに、どうして樊城など攻め取れようか」
「戦略の妙諦、用兵のおもしろさ、勝ち難きを勝ち、成らざるを成す、すべてこういう場合にあります。人間生涯の貧苦、逆境、不時の難に当っても、道理は同じものでしょう。かならず克服し、かならず勝つと、まず信念なさい。暴策を用いて自滅を急ぐのとは、その信念はちがうものです」
 悠々たる単福の態度である。その後で彼は何やら玄徳に一策をささやいた。玄徳の眉は明るくなった。
 新野をへだたるわずか十里の地点まで、曹仁李典の兵は押してきた。これ、わが待つところの象――と、単福は初めて味方をあやつり、進め、城を出て対陣した。
 先鋒の李典と、先鋒の趙雲のあいだにまず戦いの口火は切られた。両軍の戦死傷はたちまち数百、戦いはまず互角と見られたがそのうち趙雲自身深く敵中へはいって李典を見つけ、これを追って、さんざんに馳け立てたため、李典の陣形は潰乱を来し、曹仁の中軍まで皆なだれこんで来た。
 曹仁は、赫怒して、
李典には戦意がないのだ。首を刎ねて陣門に梟け、士気をあらためねばならん」
 と、左右へ罵ったが、諸人になだめられてようやくゆるした。
 
 
 曹仁は次の日、根本的に陣形を改めてしまった。自身は中軍にあって、旗列を八荒に布き、李典の軍勢は、これを後陣において、
「いざ、来い」と、いわぬばかり気負い立って見えた。
 新野軍の単福は、その日、玄徳を丘の上に導き、軍師鞭をもって指しながら、
「ご覧あれ、あの物々しさを。わが君には、今日、敵が布いた陣形を、何の備えというか、ご存じですか」
「いや、知らぬ」
「八門金鎖の陣です。――なかなか手ぎわよく布陣してありますが、惜しむらくは、中軍の主持に欠けているところがある」
「八門とは」
「名づけて休、生、傷、杜、景、死、驚、開の八部をいい、生門、景門、開門から入るときは吉なれど、傷、休、驚の三門を知らずして入るときは、かならず傷害をこうむり、杜門、死門を侵すときは、かならず滅亡すといわれています。――いま諸部の陣相を観るに、各〻よく兵路を綾なし、ほとんど完備していますが、ただ中軍に重鎮の気なく、曹仁ひとりあって李典は後陣にひかえている象――こここそ乗ずべき虚であります」
「――が、その中軍の陣を乱すには」
「生門より突入して、西の景門へ出るときは全陣糸を抜かれてほころぶごとく乱れるに相違ありません」
 理論を明かし、実際を示し、単福が用兵の妙を説くこと、実につまびらかであった。
「御身の一言は、百万騎の加勢に値する」
 と玄徳は非常な信念を与えられて直ちに趙雲をまねき、授けるに手兵五百騎をもってし、
「東南の一角から突撃して、西へ西へと敵を馳けちらし、また、東南へ返せ」
 と命じた。
 蹄雲一陣、金鼓、喊声をつつんで、たちまち敵の八陣の一部生門へ喚きかかった。いうまでもなく趙雲子龍を先頭とする五百騎であった。
 同時に、玄徳の本軍も遠くから潮のような諸声や鉦鼓の音をあげて威勢を助けていた。
 全陣の真只中を趙雲の五百騎に突破されて、曹仁の備えは、たちまち混乱を来した。崩れ立つ足なみは中軍にまで波及し、曹仁自身、陣地を移すほどなあわて方だったが、趙雲は、鉄騎を引いて、その側をすれすれに馳け抜けながら敢て大将曹仁を追わなかった。
 西の景門まで、驀走をつづけ、さえぎる敵を蹴ちらすと、またすぐ、
「元の東南へ向って返れ」と、蹂躙また蹂躙をほしいままにしながら、元の方向へ逆突破を敢行した。
 八門金鎖の陣もほとんど何の役にも立たなかった。ために、総崩れとなって陣形も何も失った時、
「今です」と、単福玄徳に向って、総がかりの令をうながした。待ちかまえていた新野軍は、小勢ながら機をつかんだ。よく善戦敵の大兵を屠り、存分に勝軍の快を満喫した。
 醜態なのは、曹仁である。莫大な損傷をうけて、李典にすこしも合わせる顔もない立場だったが、なお、痩意地を張って、
「よし、今度は夜討ちをかけて、度々の恥辱をそそいでみせる」と、豪語をやめなかった。
 李典は、苦笑をゆがめて、
「無用無用。八門金鎖の陣さえ、見事それと観破して、破る法を知っている敵ですぞ。玄徳の帷幕には、かならず有能の士がいて、軍配をとっているにちがいない。何でそんな常套手段に乗りましょうや」
 忠言すると、曹仁はいよいよ意地になって、
「ご辺のように、そういちいち物怯じしたり疑いにとらわれるくらいなら、初めから軍はしないに限る。ご辺も武将の職をやめたらどうだ」と、痛烈に皮肉った。
 
 
 彼の揶揄に、李典は一言、
「自分がおそれるのは、敵が背後へまわって、樊城の留守を衝くことだ。ただ、それだけだ」
 と、あとは口を緘して、何もいわなかった。
 曹仁は、その晩、夜襲を敢行した。けれど、李典の予察にたがわず、敵には備えがあった。
 敵の陣営深く、討ち入ったかと思うと、帰途は断たれ、四面は炎の墻になっていた。まんまと、自らすすんで火殺の罠に陥ちたのである。
 さんざんに討ち破られて、北河の岸まで逃げてくると忽然、河濤は岸をうち、蘆荻はみな蕭々と死声を呼び、曹仁の前後、見るまに屍山血河と化した。
「燕人張飛、ここに待ちうけたり、ひとりも河を渡すな」と、伏勢の中で声がする。
 曹仁は立往生して、すでに死にかかったが、李典に救われて、からくも向う岸に這い上がった。
 そして樊城まで、一散に逃げてくると、城の門扉を八文字に開いて、
敗将曹仁、いざ入り給え。劉皇叔が弟臣、雲長関羽がお迎え申さん」
 と、金鼓を打ち鳴らして、五百余騎の敵が、さっと駈けだしてきた。
「あっ?」
 仰天した曹仁は、疲れた馬に鞭打ち、山にかくれ、河を泳ぎ、赤裸同様な姿で都へ逃げ上ったという。その醜態を時人みな「見苦しかりける有様なり」とわらった。
 三戦三勝の意気たかく、やがて玄徳以下、樊城へ入った。県令の劉泌は出迎えた。
 玄徳はまず民を安んじ、一日城内を巡視して劉泌の邸へ入った。
 県令の劉泌は、もと長沙の人で玄徳とは、同じ劉姓であった。漢室の宗親、同宗の誼みという気もちから特に休息に立ち寄ったものである。
「こんな光栄はございません」
 と、劉家の家族は、総出でもてなした。
 酒宴の席に、劉泌はひとりの美少年をつれていた。玄徳がふと見ると、人品尋常でなく、才華玉の如きものがある。で、劉泌にそっと訊ねてみた。
「お宅のご子息ですか」
「いえ、甥ですよ――」
 と、劉泌はいささか自慢そうに語った。
「もと寇氏の子で、寇封といいます。幼少から父母をうしなったので、わが子同様に養ってきたものです」
 よほど寇封を見込んだものとみえて、玄徳はその席で、
「どうだろう、わしの養子にくれないか」と、云いだした。
 劉泌は、非常な歓びかたで、
「願うてもない倖せです。どうかお連れ帰り下さい」
 と、当人にも話した。寇封の歓びはいうまでもない。その場で、姓も劉に改め、すなわち劉封と改め、以後、玄徳を父として拝すことになった。
 関羽張飛は、ひそかに眼を見あわせていたが、後玄徳へ直言して、
「家兄には、実子の嫡男もおありなのに、なんで螟蛉を養い、後日の禍いを強いてお求めになるのですか。……どうもあなたにも似合わないことだ」と諫めた。
 けれど父子の誓約は固めてしまったことだし、玄徳劉封を可愛がることも非常なので、そのままに過ぎているうちに、
樊城は守るに適さない」
 という単福の説もあって、そこは趙雲の手勢にあずけ、玄徳はふたたび新野へかえった。
孔明の巻 第20章
次の章
Last updated 8日 ago