遼西・遼東
一
いまや曹操の勢いは旭日の如きものがあった。
北は、北狄とよぶ蒙古に境し、東は、夷狄と称する熱河の山東方面に隣するまで――旧袁紹治下の全土を完全に把握してしまった。彼らしい新味ある施政と威令とは、沈澱久しかった旧態を一掃して、文化産業の社会面まで、その相貌はまったく革ってきた。
しかも、曹操は、まだ、
「――これでいい」と、しなかった。
彼の胸中は、大地の広大のごとく、果てが知れなかった。
彼の壮図のもとに、ふたたび大軍備が命ぜられたが、もとよりこれには曹洪以下、だいぶ異論も多かった。
実に当然な憂いであった。
「冒険には違いないが、千里の遠征も、制覇の大事も、そう二度三度はくり返されません。すでに都を去ってここまできたものを千里征くも、二千里征くも大差はない。ことに、袁紹の遺子を流浪させておけば、連年、どこかで叛乱を起すにちがいありません」
議事は決した。
そのほか、純戦闘隊数十万、騎馬あり徒歩あり、輿あり、また弩弓隊あり軽弓隊あり、鉄槍隊あり、工具ばかり担ってゆく労兵隊などまで実に物々しいばかりな大行軍であった。
廬龍寨(河北省・劉家営)まで進んだ。
すでに夷境へ近づくと、山川の気色も一変し、毎日狂風が吹き荒れて――いわゆる黄沙漠々の天地が蟻のようなこの大行軍の蜿蜒をつつんだ。
「どうも、行程がはかどらないようです。かくては、千里の遠征に、功は遂げても、年月を費やしましょう。また敵の備えも固まりましょう。――如かじあなたは、軽騎の精猛のみを率い、道の速度を三倍して、夷狄の不意を衝きなさい。その余の軍勢は、不肖がお預りして病を養いながら、お待ちしております」
道の案内には、もと袁紹の部下だった田疇という者が立った。
泥河あり、湖沼あり、断崖あり――あらゆる難路が横たわっているので、もし田疇がいなかったら、地理の不案内だけでも、曹軍は立往生したかも知れなかった。
時、建安の十一年、秋七月だった。
二
「おびただしい夷族の整備ではある。けれど悲しいかな、夷族はやはり夷族。あの配陣はまるで兵法を知らないものの児戯だ。一戦に蹴破ってよろしい」
そのほかの夷兵は全部、降参して出た。曹操は、田疇の功を賞して、柳亭侯に封じたが、田疇はどうしても受けない。
「それがしは以前、袁紹に仕えて、なお生きている身なのに、旧主の遺子を追う戦陣の道案内に立って、爵禄を頂戴するなど、義において忍びません」というのである。
「苦衷。もっともなことだ」
曹操は思いやって、代りに議郎の職を命じ、また柳城の守りをいいつけた。
律令正しい彼の軍隊と、文化的な装備やまた施政は、いちじるしく辺土の民を徳化した。近郡の夷族は続々と、貢ぎ物をもたらして、柳城市に群れをなし、みな曹操に恭順を示した。
「……どうも捗々しくなく、九分まではむずかしいそうです」
「ここは田疇にまかせて還ろう」と、云いだした。
すでに冬にかかっていた。車騎大兵の行路は、困難を極めた。時には二百余里のあいだ一滴の水もなくて、地下三十丈を掘って求めなければならなかったし、青い物は一草もないので、馬を斃して喰い、病人は続出する有様だった。
「よく、善言をいってくれた」と、恩賞をわけ与えたのである。そしてなお云うには、
「幸いに、勝つことを得、身も無事に還ってきたが、これはまったく奇蹟か天佑というほかはない。獲るところは少なく、危険は実に甚だしかった。この後、予に短所があれば、舌に衣を着せず、万、諫めてもらいたい」
「予の覇業は、まだ中道にあるのに、せっかく、ここまで艱苦を共にして来た若い郭嘉に先立たれてしまった。彼は諸将の中でも、一番年下なのに」
と、彼は骨肉のひとりを失ったように、涙をながして悲しんだ。喨々、哀々、陣葬の角笛や鉦は、三日にわたって、冬空の雲を哭かしめていた。
「これは、亡くなられたご主人のご遺言でした。死期を知ると、ご主人はみずから筆をとって認め、自分が死んだら、あとでご主君に渡してくれよ、ここに書いたようになされば、遼東の地は、自然に平定するであろうと仰っしゃいました」
曹操は、遺書を額に拝した。
数日の後には、早くも、諸将のあいだに、
「遼東をどうするか?」――が、紛々と私議論争されていた。
「捨てておいても大事ない。やがて近いうちに、公孫康から、袁兄弟の首を送ってくるだろう」
曹操は今度に限ってひどく落着きこんでいた。
三
「扶けたがいいか、いっそ、殺すべきだろうか」を、今なお迷っていた。
――というのは、一族の者から、扶ける必要はないと、異論が出たからである。
そして、なおこう極言する者もあった。
「――鳩は、鵲の巣を借りて、いつのまにか鵲を追って巣を自分の物にしてしまう。亡父の遺志を思い出して、袁兄弟も、後には鳩に化けないこともない。むしろこの際、彼らの首を曹操へ送ってやれば、曹操は遼東を攻める口実を失い、遼東もこのまま安泰なるばかりでなく、翻然、ご当家を重んじないわけにゆかなくなる」
「さてはそろそろ出軍の相談かな? 何といっても曹操の脅威をうけている折だから、吾々の協力もなくてはかなうまい」
などと談じ合いながら登城してきた。
ところが、一閣の室に通されて見ると、この寒いのに、暖炉の備えもなく榻の上に裀も敷いてなかった。
ふたりは面をふくらせて、
「われわれの席はどこですか」と、尊大ぶった。
公孫康は、大いに笑って、
「今から汝ら二つの首は、万里の遠くへ旅立つのに、なんで温き席がいろうや」
と、いうや否や、帳の陰を振りかえって、それっと合図した。
「もし、遼東へ攻め進むお心がないならば、はやく都へご凱旋あっては如何です。なすこともなく、こんな所に滞陣しているのは無意味でしょう」
すると曹操は、
諸将は、彼の心事を怪しみ、また嘲笑を禁じ得なかった。ところが半月ほどすると、太守公孫康の使者は、ここに到着し、書を添えて、匣に入れた塩漬の首二顆を正式に献じた。
さきに嘲けり笑っていた諸人は驚いた。曹操は限りなく笑い興じて、
「郭嘉の計にたがわず、故人の遺書の通りになった。彼も地下で満足したろう」
と、種明しをして聞かせた。
つまり彼は、遼東の君臣が、袁家の圧力に対して、多年伝統的に、反感や宿怨こそ持っているが、何の恩顧も好意も寄せていないことを、疾くに洞察していたからである。