風の便り
一
大戦は長びいた。
曹操もひとまず帰洛して、将兵を慰安し、一日慶賀の宴をひらいた。
その折、彼は諸人の中で、
「延津の戦では、予がわざと兵糧隊を先陣につけて敵を釣る計略を用いたが、あれを覚っていたのは荀攸だけだった。しかし荀攸も口の軽いのはいけない」と思い出ばなしなど持ちだして大いににぎわっていたが、そこへ汝南(河南省)から早馬が到来して一つの変を報じた。
かねて曹洪を討伐にやってあったが、匪賊の勢いは猛烈で洪軍は大痛手をうけ、いまなお、退却中という報告であった。
ちょうど、宴の最中、人々騒然と議にわいたが、関羽が、
「願わくは、それがしをお遣りください」と、申し出た。
曹操は、歓びながら、
「おお、羽将軍が行けば、たちどころに平定しようが、先頃からご辺の勲功はおびただしいのに、まだ予は、君に恩賞も与えてない。――しかるにまたすぐ戦野に出たいとは、どういうご意志か」
と、すこし疑って訊ねた。
関羽は、答えていう。
「匹夫は玉殿に耐えずとか、生来少し無事でいると、身に病が生じていけません。百姓は鍬と別れると弱くなるそうですが、こなたにも無事安閑は、身の毒ですから」
曹操も、反省して、
「そうだ、こんど汝南から帰ってきたら、もうあまり用いないことにしよう」と、うなずいた。
「やあ、どうしたわけだ」と、びっくりして、自身彼の縛めを解き、左右の兵を退けてから、二人きりで旧情を温め合った。
関羽はなによりも先ずたずねた。
「其許は、家兄玄徳のお行方を知っているだろう。いま何処におられるか」
「や。では敵方か」
「ま、待ちたまえ。――ところがその後、河北の袁紹からだいぶ物資や金が匪軍へまわった。曹操の側面を衝けという交換条件で――。そんなわけで折々河北の消息も聞えてくるが、先頃、ある確かな筋から、ご主君玄徳が、袁紹を頼まれて、河北の陣中におられるということを耳にした。それは確実らしいのだ。安んじ給え。いずれにせよ、ご健在は確実だからな」
二
「そうか。……ああ有難い。だがまさかおれを歓ばすために、根もない噂を聞かすのではあるまいな」
「天のご加護とやいわん」
関羽は、瞼をとじて、何ものかへ、恩を謝しているふうだった。
孫乾は、さらに声をひそめて、
「何で、彼らが、偽って逃げるのか」
「匪軍の将ながら、劉辟も龔都もかねて心のうちで、ふかく其許を慕っておった。で、このたび羽将軍が攻め下ってくると聞くと、むしろ歓びをなしたほどなのだ。しかし一面、袁紹と結んでいる関係もあるから、戦わぬわけにもゆかぬ」
「わかった。彼らがその心ならば、手心をしよう。それがしは平定の任を果たせばそれでよい」
「そして、一度、都へ帰られた上、二夫人を守護してふたたび汝南へ下って参られい」
「おお、一日も急ごう。……すでにご主君の居どころが分ったからには、一刻半日もじっとしていられない心地はするが、そのお居所が、袁紹の軍中だけに、もしそれがしが不意に行ったら、どんな変を生じようもはかり難い。――なにせい先に顔良、文醜などの首をみなこの関羽が手にかけておるからな」
「む、む。それなら万全だ。身に変事のかかることは怖れぬが、彼に身を寄せ給うているご主君が心がかり……。頼むぞ、孫乾」
「お案じあるな、きっと、そこを確かめて、あなたが二夫人を守護してくるのを、半途まで出て待っていましょう」
「おお、一刻もはやく、主君のご無事なおすがたを見たいものだ。ひと目、その思いを果たせばそれだけでも、関羽は満足、いつ死んでもよい」
「なんの、これからではありませんか、羽将軍にも似あわしくない」
「いや、気持のことだ。それほどまで待ち遠いというたまでのこと」
陣中すでに更けている。
あくる日、匪軍との戦は、予定どおりの戦となった。
すると龔都がふり向いて、
「忠誠の鉄心、われら土匪にすら通ず、いかで天の感応なからん。――君よ、他日来たまえ。われかならず汝南の城をお譲りせん」と、いった。
関羽は苦もなく州郡を収めて、やがて軍をひいて都へ還った。
兵馬の損傷は当然すくない。
三
祝盃また大杯を辞せず、かさねて、やや陶然となった関羽は、やがて、その巨躯をゆらゆら運んで退出して来た。
大酔はしていたが、帰るとすぐ、彼は、二夫人の内院へ伺候して、
「ただ今、汝南より凱旋いたしてござる。留守中なんのお恙もなくいらせられましたか」
と、久しぶり拝顔して、四方山ばなしなどし始めた。
すると甘夫人は、
「将軍、妾の待ちわびていたのは、そのような世間ばなしではありません。戦いの途次、なんぞわが夫玄徳の便りでも聞かなんだか。お行方を知る手がかりでも耳にしなかったか……」
と、もう涙ぐんで訊ねた。
関羽は、大々した腹中から、大きな酒気を吐いて、憮然と、
――と。甘夫人も、糜夫人も、珠簾のうちに伏し転んで、声を放って泣き悲しんだ。
そして恨めしげに、関羽へいうには、
「さだめし、わが夫は、もうどこかでお討死を遂げているのでしょう。それと話しては、妾たちが、嘆き悲しむであろうと将軍の胸だけに包んでいるにちがいない。……そうです、そうに違いない。……ああどうしたらよいであろう」
こうも思い、ああも思い、女性の感傷は、纒綿の涙と戯れているようだった。糜夫人も、共に慟哭しながら、こよいの関羽の酒気をひがんで云った。
「羽将軍も、むかしと違って、いまは曹操の寵遇も厚く、恩にほだされて、妾たちが足手まといになって来たのでございましょう。……それならそれと云ってください。いっそのこと、将軍の剣で……妾たちのはかない生命をひと思いに」
「何を仰せられますか」
酔も醒めて、関羽は胸を正した。そして改まって二夫人へこう諭した。
「それがしの苦衷も少しはお酌みとりくだされい。曹操の恩に甘えるくらいなら何でこんな忍苦をしておりましょう。皇叔のお行方についても、曙光が見えかけておりますが、もしあなた様がたにお告げして、それがふと内走の下女から外にでももれては、これまでの苦心も水泡に帰するやも知れずと、実は深く秘している次第でございまする」
「えっ、何といやるか。……では、皇叔のお行方がすこしは分りかけているのですか」
「将軍、それは、誰に聞きましたか」
「そ、それでは、内院を捨てて、許都から脱れ出るおつもりか……」
「しっ……」
関羽は不意にふり向いて、内院の苑をじっと見ていた。風もないのに、そこらの樹木がさやさやと揺れたからである。