煩悩攻防戦
一
呂布は、櫓に現れて、
「われを呼ぶは何者か」と、わざと云った。
「君を呼ぶ者は君の好き敵である許都の丞相曹操だ。――しかし、君と我と、本来なんの仇があろう。予はただご辺が袁術と婚姻を結ぶと聞いて、攻め下ってきたまでである。なぜならば、袁術は皇帝を僭称して、天下をみだす叛逆の賊である。かくれもない天下の敵である」
「…………」
呂布は、沈黙していた。
河水をわたる風は白く、蕭々と鳴るは蘆荻、翩々とはためくは両陣の旌旗。――その間一すじの矢も飛ばなかった。
「…………」
「それに反し、この際、迷妄にとらわれて降らず、君の城郭もあえなく陥落する日となっては、もう何事も遅い、君の一族妻子も、一人として生くることは、不可能だろう。のみならず、百世の後まで、悪名を泗水に流すにきまっている。よくよく賢慮し給え」
呂布は動かされた。それまで黙然と聞いていたが、やにわに手を振り上げ、
「丞相丞相。しばらくの間、呂布に時刻の猶予をかし給え。城中の者とよく商議して、降使をつかわすことにするから」
「な、なにをばかなことを仰っしゃるかっ」
と、主君の口をふさぐように、突然、横あいから大音声で曹操へ云い返した。
「やよ曹賊。汝は、若年の頃から口先で人をだます達人だが、この陳宮がおる以上、わが主君だけは欺かれんぞ。この寒風に面皮をさらして、無用の舌の根をうごかさずと、早々退散しろ」
曹操は、くわっと眦をあげて、
「陳宮ッ、忘るるな、誓って汝の首を、予の土足に踏んで、今の答えをなすぞ」
そして左右の二十騎に向って、即時、総攻撃にうつれと峻烈に命じた。
櫓の上から呂布はあわてて、
「待ちたまえ、曹丞相。今の放言は、陳宮の一存で、此方の心ではない。それがしは必ず商議の上、城を出て降るであろう」
陳宮は、弓を投げつけて、ほとんど喧嘩面になって云った。
「この期になって、なんたる弱音をはき給うことか。曹操の人間はご存じであろうに。――今、彼の甘言にたばかられて、降伏したが最後、二度とこの首はつながりませんぞ」
「だまれっ、やかましいっ。汝一存を以てなにを吠ゆるか」
「まあ、ご堪忍ください。陳宮も決して自分のために、面を冒していっているわけではなし、みな忠義のほとばしりです。元来、忠諫の士です。今、唯一つのお味方を失っては決していいことはありますまい」
呂布もようやく悪酔いのさめたようにほっと大息を肩でついて、
「いや、ゆるせ陳宮。今のは戯れだ。――それより何か良計があるなら惜しまず俺に教えてくれい」
と、云い直した。
二
「良計はなきにしも非ずですが」
陳宮も辞を低うして答えた。
「ただお用いあるか否かが問題です。ここに取るべき一策としては『掎角の計』しかありません。将軍は精兵を率いて、城外へ出られ、それがしは城に在って、相互に呼吸をあわせ、曹操をして、首端の防ぎに苦しませるものであります」
「それを掎角の計というか」
「そうです。将軍が城外へ出られれば、必ず曹操はその首勢を、将軍へ向けましょう。すると、それがしは直ぐ城内からその尾端を叩きます。また、曹操がお城のほうへ向かえば、将軍も転じて、彼の後方を脅かし、かくして、掎角の陣形に敵を挟み、彼を屠るの計であります」
呂布は、たちまち、戦意を昂めて、立ちどころに出城の用意と云いだした。
山野に出れば、寒気はことに烈しかろうと想像されるので、将士はみな戦袍の下に綿衣を厚く着こんだ。
呂布も奥へはいって、妻の厳氏に、肌着や毛皮の胴服など、氷雪をしのぐに足る身支度をととのえよといいつけた。
厳氏は、良人の容子を怪しみながら、
「いったい、何処へお出ましですか」と、たずねた。
呂布は、城を出て戦う決意を語って、
「陳宮という男は、実に智謀の嚢のような人間だ。彼の授けた掎角の計をもってすれば、必勝は疑いない」と、あわただしく、身に物の具をまといだした。
すると厳氏は、
「まあ、ここを他人の手に預けて、城外へ出ると仰せなさいますか」
色を失った面持で、急にさめざめと泣きだした。
そして、なお、掻き口説いて、
「あなたは、後に残る妻子を、可哀そうともなんとも思いませんか。陳宮の考えだそうですが、陳宮の前身を思うてごらんなさい。あれは以前、曹操と主従の約をむすんでいたのを、途中から変心して、曹操を見捨てて奔った男ではありませんか。――ましてあなたは、その曹操ほども、陳宮を重く用いてはこなかったでしょう」
「…………」
妻が真剣に泣いて訴えはじめたので、呂布は途方に暮れた顔をしていた。
「……ですもの、陳宮が、どうして曹操以上に、あなたへ忠義を励みましょう。陳宮に城を預けたら、どんな変心を抱くかしれたものではありません。……そうなったら、妾たち妻子は、またいつの日、あなたに会うことができましょう」
綿々と、恨みつらみを並べた。
呂布は、着かけていた毛皮の鎧下を脱ぎすてて、
「ばか、泣くな。戦の門出に、涙は不吉だ。明日にしよう、明日に」
急に、そういって、
「娘は何をしているか」
と妻と共に、娘たちのいる部屋へ入って行った。
明日になっても呂布は立つ気色もない。二日も過ぎ、三日も過ぎた。
陳宮がまた、顔を見せた。
「将軍。――一日も早く城を出て備えにおかかりなさらないと、曹操の大兵は、刻々と城の四囲に勢いを張るばかりですぞ」
「や、陳宮か、おれもそう思うが、やはり遠く出て戦うよりは、城に居て堅く守るが利という気もするが」
「いや、機はまだ遅くありません。この日頃、許都のほうからおびただしい兵糧が曹操の陣地へ運送されて来るという情報が入りました。将軍が兵をひいて城外へ出られれば、その糧道も併せて断つことができる。――これ一挙両得です。敵にとっては致命的な打撃となること、いうまでもありません」
三
「なに。曹操の陣へ、都から兵糧の運送が続々と下ってくると。……フム、その途を中断するのか。よしっ、明日は兵をひいて城を出よう」
「何とぞ、この機をはずさず」
と、わざと多言を吐かずに退いた。
「もう再びこの世で将軍とお会いできないかと思うと泣いても泣いても足りません。行く先誰をたのみに世を送りましょう」と、なお悲しんだ。
「何をいう。おれはこの通り健在ではないか。この城にはまだ冬を越す兵糧もある。万余の精兵もいる」
「いいえ、妾は夫人から伺いました。将軍は妾たちをすてて、お城をお出になるのでしょう」
「勝利を獲るために出て戦うので何も好んで死地へ行くわけではないよ」
「二人はそんなに仲が悪いのか」
「わけて陳宮という人の肚は分らないと、夫人も憂いていらっしゃいます。――将軍、お娘様もおいとしいではございませんか。夫人や妾たちも不愍と思うてくださいませ」
呂布はその肩を軽く打って、
「あはははは」と強いて大笑した。
背をなでて、ともに牀へ憩い、侍女に酒を酌ませて、自ら貂蝉の唇へ飲ませてやった。
「念のためおれが探らせたところでは敵の陣へ都から続々兵糧が運送されつつあるとの報告は、どうも虚報らしいぞ。案ずるところ、おれを城外へ誘い出そうとする曹操のわざといわせている流言にちがいない。そんな策に乗ったら大不覚だ。おれは自重するときめた。城を出る方針は中止とする」
陳宮は、彼の室を出ると慨然と長大息して――
「……ああ、もはや何をかいわんやだ。われわれは遂に身を葬る天地もなくなるだろう」
と、力なく云った。
「折入ってお目通りねがいたい儀がございまして――」
と、侍臣を通じて許しを得、彼の前に拝をなした二人の家人がある。
二人とも陳宮の部下に属している者なので、
「何だ」と、呂布は警戒顔していう。
王楷がまずいった。
「聞説――淮南の袁術は、その後も勢力甚ださかんな由であります。将軍には先に、ご息女をもって袁家の息にゆるされ、婚姻の盛儀を挙げんとまでなされましたのに、なぜ今、疾く使いを馳せて、袁術の救いをお求めになりませんか。――婚約のことも、まだ破談ときまったわけでもなし、臣らが参ってとくと先方に話せば、たちまち諒解を得られようと思われますが」
四
「そうだ。……あの縁談も破談となり終ったわけではないな」
呂布は暗中に、一つの光明を見出したように呻いた。
そして、二人の臣へ、
「では、其方たちが、進んで淮南へ使いに立つと申すか」
「不肖なれど、ご当家の浮沈にかかわる大事、一命を賭して、致したいと存じます」
「御命、かしこまりました――しかし、この下邳の城は、すでに敵の重囲にあり、また、淮南の通路は、劉玄徳が関をもうけて、往来を厳しく監視しておりますとか。……何とぞ臣らの使命のため、一軍の兵をお出しあって、通路の囲みを突破していただきたく存じますが」
「よろしい、さもなくては淮南へ出ることはかなうまい」
「両名を淮南の境まで送るように」と、いいつけた。
「上々首尾!」
両使は、淮南の境を出ると、喊呼した。
「でも、まだ、帰りの危険もあるから」
「どこへ参る」と、一隊の兵馬に道をさえぎられた。
張遼がふと敵の将を見ると、それはかつて小沛の城を攻めた時、城頭から自分に向って正義の意見を呈してくれた関羽であった。――で、互いに顧眄の心があるので、敵ながらすぐ弓や戟に物をいわせようとせず、二、三の問答を交わしているうちに、下邳のほうから高順、侯成が助けにきてくれたので、張遼は危ういところで虎口をのがれ、無事城中へ帰ることができた。
――だが、その後。
「呂布は、反覆常なく、書簡の上だけでは、とうてい信用できかねるが、もしこの際でも、愛娘を送ってくるほどな熱意を示すならば、それを誠意の証とみとめて、朕も国中の兵をあげて救けつかわすであろう」と、いう返辞だった。
二使は、大よろこびで、道を急いで帰ってきたが、二更の頃、関所の辺を駈け通りに駈け抜けようとすると、
「夜中に、馬を早めて行くは何者の隊だ」と、張飛の陣にさとられて、たちまち包囲されてしまった。
五
「こやつは、不敵にも守備の眼をかすめて、淮南へ往来した特使の大将。ぶっ叩いてお調べください」と、突き出した。
張飛は、もどかしと、かたわらの士卒へ、
「拷問にかけろ」と、声を大にしていいつけた。
「玄徳どの、縄目をゆるめ給え、申し告げることがある」と、叫んだ。
曹操は、さてこそと、
と、返翰してきた。
依って、玄徳は、諸将を集めて、再度、厳重に云いわたした。
「仰せまでもないこと」
諸将は、命を奉じて、これからは昼夜を分かたず、甲冑を脱ぐまいぞ――と、申し合わせた。
張飛は、その後で、
玄徳は、小耳にはさんで、
「数十万の大軍を統べたもう曹丞相が、かりそめにも、軍令を口頭の戯れになさろうか。汝こそ、よしなき臆測を軽々しく口にいたすなど、匹夫の根性というべきである。油断に馴れ、たかをくくって、千歳の汚名を招くな」と、痛烈に叱った。
「はい」
張飛は、頬髯を撫しながら、ひき退った。一夜の功労も一言で失してしまった形である。
一方。――下邳城内では。
「袁術は、なお深く疑って、尋常では、当方の要求を容れる気色もありません。ただ、ご息女との婚儀には、わが子可愛さで、恋々たる未練がありそうですから、なによりもまず彼の求むるままにご息女をかの地へ送ってやることです。それも迅速に運ばねば、焦眉の急に、意味ないことになりましょう」と、淮南の復命と共に、自分たちの意見をものべていた。
呂布は、当惑顔に、
「むすめをやるはいいが、今この重囲の中、どうして送るか?」
「ほかならぬ深窓の御方。それにはどうしても、将軍御みずから送りに立たねばかないますまい」
「きょうは、凶神の辰にあたる悪日ですから、明日になされたがよろしいでしょう。――明夜、戌亥の頃を計って」
「張遼と侯成を呼べ」
けれど、その車に、娘は乗せて出さなかった。敵の囲みを突破するまでは――と、呂布は自分の背に負って行った。何も知らない十四の花嫁は、厚い綿と錦繍にくるまれて、父の冷たい甲冑の背中に、確固と結びつけられていたのである。
六
寒月は皎々として、泗水の流れを鏡の如く照り返している。
氷山雪地。風まで白い。
戛、戛、戛――
人馬の影が黒く黒く。
「物見。何事もないか」
一歩一歩、薄氷を踏む思いで進むのだった。――こもごもに物見が先に走っては、行く手の様子を告げてくる。
「敵の哨兵も、この寒さに、どこへやらもぐり込んで、寂としています」との報らせに、
「天の与え」
と、呂布は馬を早めた。
呂布の姿も、ひとたびこの馬上に仰ぎ直すと、日頃の彼とは、人間が変ったように、偉きく見えるのも不思議だった。
雄姿――そのものといえる。無敵な威風は真に四辺を払う。
さるにても、偉大なる煩悩将軍ではある。彼の如き鬼傑でも、わが娘への愛には、この三千余騎を具してもなお、敵の哨兵の眼さえ恐い。白皚々の天地をよぎる一羽の鴻の影にさえ胸がとどろく。
「むすめよ。恐くはないぞ」
幾たびも、わが背へいった。
綿と錦繍につつまれた白珠の如き十四の処女はこうして父に負われて城を立つ時から、もう半ば失神していた。
「――行く末おまえを皇后に立てて下さろうという寿春城の袁家へお嫁に行くのだよ」
彼女の母は泣きながら云い聞かせたが――これが花嫁の踏まなければならない途中の道なのか? ――彼女の白い顔は氷化し、黒い睫毛は上の瞼と下の瞼とを縫い合わせたように凍りついていた。
かくて行くこと百余里。
翌晩も寒林の中に月は怖ろしいほど冴えていた。
突として、鼓声鉦雷のひびきが、白夜を震撼した。
数千羽の烏のように、寒林を横ぎってくる慓悍なる騎兵があった。
「あっ、関羽の隊だ!」
張遼は、絶叫して、
「ご用心あれ」と、呂布を振向いた。
間もあらず、
「それッ」と、馬前はすでに、飛雪に煙る。
びゅッん!
矢風は、身をかすめ、鉄鎧にあたって砕けた。ここかしこに、喚き、呻きがあがる。そして噴血は黒くぶちまかれた。
「――怖いッ!」
呂布は、耳元に、帛を裂くような悲鳴を聞いた。
背の処女は、父の体に爪を立てんばかりしがみついた。ひいッ! と身も世もない声を二度ほどあげた。
猛然、赤兎馬は悍気立つ。
――だが、呂布もこよいばかりは、その奔馬を引止めるのに汗をかいた。もし敵の一矢でも、一太刀でも、背の娘にうけたらと、それのみに心をひかれるからであった。
「関にかかった敵は凡者ともおぼえぬぞ」
取囲む兵は叫ぶ。
「無念だが、娘を傷つけては」
空しく、彼は赤兎馬を向け直して、もとの道へと逃げ出した。
途中、しばしば、