馬盗人
一
彼は心配のあまり、病床で筆をとって、一書をしたため、使いを立てて呂布の手もとへ上申した。その意見書には、こういう献策がかいてあった。
近ごろ、老生の聞く所によると、袁術は、玉璽を手にいれ、不日天子の称を冒さんとしている由です。
明らかな大逆です。
今こそ、その秋です。
曠世の英名をあげて、同時に一代の大計をさだめる今を、むなしく逸してはいけません。こういう機会は、二度と参りますまい。
「……あなた、何を考えこんでいらっしゃるのですか」
「いや、陳珪のいうところも、一理あるから、どうしようかと思案していたのさ」
「死にかけている病人の意見などに動かされて、せっかくの良縁を、あなたは破棄してしまうおつもりですか」
「むすめは、どうしているね」
「泣いておりますよ、可哀そうに……」
「弱ったなあ」
呂布はつぶやきながら、吏士たちの詰めている政閣のほうへ出て行った。
すると何事か、そこで吏士たちがさわいでいた。
侍臣に訊かせてみると、
と、告げた。
呂布は、大口あいて笑った。
「武将が、馬を買入れるのは、いざという時の心がけで、なにも、目にかどを立ててさわぐこともあるまい――わしも良馬を集めたいと思って、先ごろ、宋憲以下の者どもを山東へつかわしてあるが、彼らも、もう帰ってくる時分だろう」
それから三日目だった。
山東地方へ軍馬を求めに出張していた宋憲と、その他の役人どもは、まるで狐にでもつままれたような恰好で、ぼんやり城中へ帰ってきた。
「軍馬はたくさん集めてきたか。さっそく逸物を五、六頭ひいて見せい」
呂布がいうと、
「申し訳ございません」と、役人どもは、彼の怒りを恐れながら、頭をすりつけて答えた。
「名馬三百匹をひいて、一昨夜、小沛の境までかかりました所、一団の強盗があらわれて、そのうち二百頭以上の逸物ばかり奪い去ってしまいました。……われら、きのうも今日も、必死になって、後をさがしましたが、山賊どもも、馬の群れも、まったく行方がわかりませんので、むなしく残りの馬だけひいて、ひとまず立ち帰って参りました」
「なに、強盗の一団に、良馬ばかり二百頭も奪われてしまったというのか」
呂布の額には、そういううちにもう青筋が立っていた。
二
「穀つぶしめ。貴様たちは日頃、なんのために禄を喰っているか」
呂布は、声荒らげて、宋憲らの責任を糺した。
「――大事な軍馬を数多強盗に奪われましたと、のめのめと面を揃えて立帰ってくる役人がどこにあるっ。強盗などを見かけたら即座に召捕るのが汝ら、吏たる者の職分ではないか」
「お怒りは、重々、ごもっともでございまするが」と、宋憲は、怒れる獅子王の前に、ひれ伏したまま言い訳した。「何ぶんにも、その強盗が、ただの野盗や山賊などではございません、いずれも屈強な男ばかりでみな覆面しておりましたが、中にもひときわ背のすぐれた頭目などは、われわれどもを、まるで小児の如く取って投げ、近寄ることもどうすることもできません。――しかもその行動はおそろしく迅速で、規律正しく、われわれの乗馬を奪って跳びのるが早いか、その頭目の号令一下に、馬匹の群れに鞭を加え、風のように逃げてしまったのです。……あまりに鮮やかなので、不審に思って、内々、取調べてみますと、われわれの手には及ばなかったはずです。――その覆面の強盗どもは、実は、小沛の劉玄徳の義弟、張飛という者と、その部下たちでありました」
「なに。それが張飛だったと……?」
「たしかか。――たしかにそれに相違ないか」と、念を押した。
「決して、偽りはありません」
「うぬっ」と、呂布は歯を噛んで、席を突っ立ち、
「おれの堪忍はやぶれた」と、咆哮した。
城中の大将たちは、直ちに呼びだされた。呂布は立ったままでいた。そして一同そこに立ち揃うと、
驚いたのは、玄徳である。
「何ゆえに?」
理由がわからない。
しかし事態は急だ。防がずにいられない。
彼も、兵を従えて、城外へすすみ出た。そして大音をあげて、
「呂将軍、呂将軍。この態はそも、何事ですか。故なく兵をうごかし給うは近頃、奇怪なことに思われますが」
「ほざくな、劉備」
呂布は、姿を見せた。
「この恩知らず! 先に、この呂布が、轅門の戟を射て、危ういところを、汝の一命を救ってやったのに、それに酬いるに、わが軍馬二百余頭を、張飛に盗ませるとは何事だ。偽君子め! 汝は強盗を義弟として、財を蓄える気か」
ひどい侮辱である。
「吝ッたれ奴! 二百匹ばかりの軍馬がなんだ。あの馬を奪りあげたのは、かくいう張飛だが、われをさして強盗とは聞き捨てならん。おれが強盗なら汝は糞賊だ」
「なに、糞賊?」
「そうではないか! 汝は元来、寄る辺なく、この徐州へ頼ってきた流寓の客にすぎぬ。劉兄のお蔭で、いつのまにか徐州城に居直ってしまい、太守面をしているのみか、国税もすべて横領し、むすめの嫁入り支度といっては、民の膏血をしぼり、この天下多難の秋に、眷族そろって、能もなく、大糞ばかりたれている。されば汝ごとき者を、国賊というのももったいない。糞賊というのだ。わかったか呂布っ」
三
張飛の悪たれが終るか終らない咄嗟だった。
呂布は颯ッと満面の髯も髪もさかだてて、画桿の大戟をふりかぶるやいな、
「下郎っ」と、凄まじい怒りを見せて打ってかかった。
張飛は、乗ったる馬を棹立ちに交わしながら、
「よいしょッ」
と、相手の反れた戟へ、怒声をかけてやった。
揶揄された呂布は、いよいよ烈火のようになって、
「おのれ」
と、さらに、戟を持ち直し、正しく馬首を向け直すと、張飛も、
「さあ、おいで」
と、一丈八尺の矛を構えて、炬のごとき眼を、呂布に向けた。
けれど同じ鉄腕の持ち主でも、その性格は甚だしくちがっている。張飛は、徹底的に、呂布という漢が嫌いだった。呂布を見ると、なんでもない日頃の場合でも、むらむらと闘志を挑発させられる。同様に、呂布のほうでも、常々、張飛の顔を見ると、ヘドを催すような不快に襲われる。
かくの如く憎み合っている両豪が、今や、戦場という時と所を得て、対い合ったのであるからその戦闘の激烈であったことは言語に絶している。
戟を交わすこと二百余合、流汗は馬背にしたたり、双方の喚きは、雲に谺するばかりだった。しかもなお、勝敗はつかず、馬蹄のためにあたりの土は掘り返り、陽はいつのまにか暮れんとしている。
後ろのほうで、関羽の声がした。
気がついて、彼が前後を見まわすと、もう薄暮の戦場にのこっているのは、自分ひとりだけであった。
そして敵兵の影を遠巻きに退路をつつみ、草靄が白く野を流れていた。
「オーッ。――関羽かっ」
「はやく来い。そんな敵は打ちすてて引揚げろ」
「呂布、明日また来い」と云いすてて馳けだした。
「家兄がご立腹だぞ」と、ささやいた。
「またも其方は禍いをひき起したな。――一体、盗んだ馬は、どこに置いてあるのか」
「城外の前の境内にみなつないであります」
「そうだ。人情はおれの弱点だ」
そのまま、息もつかず翌日にわたって、攻め立てたので、小勢の県城は、たちまち危なくなった。
「どうしよう?」
玄徳は、彼の説に従って、その夜三更、搦手から脱けだして、月の白い道を、腹心の者とわずかな手勢だけで、落ちのびて行った。