麦青む

 
 孔明成都に還ると、すぐ参内して、天機を奉伺し、帝劉禅へこう奏した。
「いったい如何なる大事が出来て、かくにわかに、臣をお召し還し遊ばされましたか」
 もとより何の根拠もないことなので、帝はただうつ向いておられたが、やがて、
「余り久しく相父の姿を見ないので、慕わしさのあまり召し還したまでで、べつに理由はない」
 と正直に答えた。
 孔明は色をあらためて恐らくはこれ何か内官の讒に依るものではありませぬかと、突っこんでたずねた。帝は黙然たるままだったが、
「いま相父に会って、初めて疑いの心も解けたが、悔ゆれども及ばず、まったく朕のあやまりであった」と深く後悔のさまを示した。
 孔明は、相府へ退がると、直ちに宮中の内官たちの言動を調べさせた。出師の不在中孔明を誹謗したり、根もない流説を触れまわったりしていた悪質の者数人は前から分っていたのですぐ拉致されて来た。
 孔明は彼らに詰問した。
「いやしくも卿らは、戦いの後ろにあって、国内の安定と民心の戦意を励ます重要な職にありながら、何で先に立って、不穏な流説を行い、朝野の人心を惑わしめたか」
 ひとりの内官は懺悔してまっすぐに自白した。
「戦いがやみさえすれば、暮し向きも気楽になり、諸事以前のような栄耀が見られると存じまして。つい……」
「ああ、何たる浅慮な――」と、孔明は痛嘆して、彼らの小児病的な現実観をあわれんだ。
「もし蜀が卿らのような考え方でいたら、戦いはわれから避けようとしても、魏から押しつけてくるし、呉からも持ち込んできて、好むと好まざるとにかかわらず、蜀境の内において、今日の戦争をしていなければなるまい。しかもその戦いは敗るるにきまっており、その惨禍は、祁山へ出て戦う百倍もひどいものを見ただろう。しかのみならず、汝らはじめ蜀の民は、今日の戦後に働くどころの苦しみではなく、魏や呉の兵に、家も国土も蹂躙され掠奪凌辱のうき目にあうはいうまでもなく、永く呉の奴隷に落され、魏の牛馬にされて、こき使わるるは知れたこと。――きょうの不平と、その憂き目と思い較べて、いずれがよいと欲しているか」
 内官たちは皆、ふかく頭を垂れたまま、一言の言い訳もできなかった。
「――しかし、恐らくこれは、敵国の謀略だろう。いったい、わが軍、官、民の離反を醸すような風説は、誰から出たのか。卿らは誰から聞いた」
 その出所をだんだん手繰ってみると、結果、苟安という者であるということが明瞭になった。
 すぐ相府から保安隊の兵がその住居へ捕縛に向ったが、時すでに遅かった。苟安は風を喰らってとうに魏の国へ逃げ失せていた。
 孔明は、百官を正し、蒋琬、費褘などの大官にも厳戒を加え、ふたたび意気をあらためて、漢中へ向った。
 連年の出師に兵のつかれも思われたので、今度は全軍をふたつに分けて、一半を以て、漢中にのこし、一半を以て、祁山へ進発した。そしてこれの戦場にある期間を約三月と定め、百日交代の制を立てた。――要するに百日ごとに、二軍日月のごとく戦場に入れ代って絶えず清新な士気を保って魏の大軍を砕かんとしたものである。
 蜀の建興九年は、魏の太和五年にあたる。この春の二月、またも急は洛陽の人心へ伝えられ、魏帝はさっそく力と恃む司馬仲達を招いて、
孔明に当るものは、御身をおいてほかにはない。国のため、身命をつくしてくれよ」
 と、軍政作戦すべてを託した。
曹真大都督すでにみまかる。この上は微臣の力を尽して、日頃のご恩におこたえ申し奉らん」
 司馬懿は早くも長安に出て、全魏軍の配備に当った。すなわち左将軍張郃を大先鋒とし、郭淮隴西の諸軍を守らせ、彼自身の中軍は堂々、右翼左翼、前後軍に護られて、渭水の前に、大陣を布いた。
 
 
 祁山は霞み、渭水の流れも温んできた。春日の遅々たる天、久しく両軍の鼓も鳴らなかった。
 仲達は一日、張郃と会って語った。
「思うに孔明は相変らず、兵糧の悩みに種々工夫をめぐらしているだろう。隴西地方の麦もようやく実ってきた頃だ。彼はきっと静かに軍を向けて、麦を刈り取り、兵の資に当てようと考えるにちがいない」
隴西の青麦は莫大な量です。あれを刈れば優に蜀軍のは足りましょう」
「ご辺は渭水にあって、しかと祁山へ対しておれ。司馬懿みずからこの軍を率いて、隴西に出で向う孔明の目的を挫いてみせん」
 彼はこう意図した。渭水の陣には張郃と四万騎をのこしたのみで、その余の大軍すべてを動かし、彼自身、これを率いて、隴西へ向った。
 仲達の六感は誤らなかった。時しも孔明は、隴西の麦を押える目的で、鹵城を包囲し、守将の降を容れて、
「麦は今、どの地方がよく熟しているか」
 と、その降将に質問していた。
「ことしは隴上のほうが早く熟れているようです。それに隴上のほうが麦の質も上等です」
 こう聞いたので、孔明は、占領した鹵城の守りには、張翼馬忠をとどめ、自ら残余の軍をひきつれて、隴上へ出て行った。
 すると、先駆の小隊から、
「隴上には入れません。すでに魏の軍馬が充満しており、中軍を望むと、司馬仲達の旗が見えます」と報じて来た。
 孔明は舌打ち鳴らして、
「あれほど密に祁山を出てきたが、彼はもう我の麦を刈らんことを量り知ったか。――さもあらば仲達にも不敗の構えあることであろう。我とて世のつねの気ぐみではそれに打ち勝てまい」
 深く期して、彼はその夕べ沐浴して身を浄め、平常乗用の四輪車と同じ物を四輛も引き出させた。
 やがて夜に入るや、孔明の帷幕には、三名の将が呼ばれて、何事かひそやかに、遅くまで語らっていた。
 一番に姜維がそこを出て、一輛の車を引かせて自陣へ帰った。二番目に馬岱がまた一つの車を持って帰った。三番目には魏延が同じように自分の陣へ一つの車を運んで行った。
 かくて残った一輛は、しばし星の下に置かれていたが、やがて営を出てきた孔明が、自身それに乗って、
「関興、用意はできたか」と、出陣を促した。
 おうっと、遠くから答えて、関興は妖しげな一軍隊をさし招いて、たちまち、車のまわりに配した。
 まず、車の左右に、二十四人の屈強な武者が立ち並んで、それを押した。みな跣足であり、みな黒き戦衣を着し、みな髪を振りさばき、また皆、片手に鋭利な真剣を提げている。
 さらに四人、同じ姿の者が、車の先に立ち、北斗七星の旗を護符のごとく捧げていた。そしてなお五百人の鼓兵が鼓を持ってこれに従い、槍隊千余騎は、前途幾段にもわかれて、孔明の車を衛星のように取り囲んだ。
 孔明の装束も、常とはすこし変っている。いつもの綸巾ではなく、頭には華やかな簪冠をいただいている。衣はあくまで白く、佩剣の金が夜目にも燦爛としていた。
 また関興やそのほかの旗本は、みな天逢の模様のある赤地錦の戦袍を着、馬を飛ばせば、さながら炎が飛ぶかと怪しまれた。
 かくてこの天より降れる鬼神の陣かとも疑われるこの妖装軍は、深更に陣地を発して、隴上へ向って行った。
 そのあとから約三万の歩兵が前進した。これは手に手に鎌を持っているのだ。おそらく戦いの隙を見ては麦を刈って、これを後方へ運搬する手筈のもとに組織された軍であろう。日頃の行軍編制とはまるで違う。なにしても異様なる有様であった。
 魏本軍の前隊を哨戒していた物見の兵は仰天した。こけ転んで、部将に告げ、部将はこれを、中軍へ急報した。
「なに。鬼神の軍が来たと」
 司馬懿は嘲笑って、陣頭へ馬をすすめて来た。時はまさに丑の真夜中であった。
五丈原の巻 第20章
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