弁皇子

冒頭
弁皇子(べんおうじ)とは、後漢霊帝の皇子で、何后(のち何太后)が生んだ皇子です。外戚としての何進が権勢を得る背景ともなり、宮廷の後継争いの焦点となりました。
 
生涯
霊帝の病が重くなると、宮中では弁皇子と、王美人の子で董太后に養育された協皇子(のちの献帝)との間で、皇太子・皇位をめぐる緊張が高まります。霊帝は弁より協を偏愛し、これが宦官勢力の策動も呼びました。
のち董卓朝廷の実権を握ると、「現帝」を弘農王として廃し、陳留王協皇子)を新帝として奉戴する措置が強行され、弁皇子は帝位から引き降ろされます。
廃位後は何太后とともに永安宮に幽閉され、監視下に置かれます。やがて廃帝が怨みを述べる詩を作ったことを口実に、董卓李儒へ母子の処分を命じ、殺害へつながります。
 
人物像
自立した政治的基盤を持たず、外戚の何氏と宦官、さらに董卓ら武人勢力の角逐のなかで、皇位の正統性をめぐる「担がれる存在」として位置づけられます。廃位後も、存在自体が政争の火種と見なされました。
 
血縁
父は霊帝、母は何后(のち何太后)です。霊帝には王美人の子である協皇子献帝)もおり、後継をめぐって対立軸が生じます。
 
関係人物
何進何后の兄として外戚勢力を代表し、皇子擁立を支える立場にありました。
協皇子は後に献帝として立てられ、弁皇子は董卓によって廃されます。
董卓は廃立を断行し、李儒はその実務を担う形で処分に関与します。
 
有名なエピソード
廃位・幽閉中に作ったとされる悲歌が監視兵により密告され、それが「後の害」を理由とする処分命令に結びつきました。
 
史実との違い
吉川三国志での廃立・幽閉・殺害の筋立ては、少帝(劉弁)が董卓により廃され最終的に殺害されるという史実・演義の大枠と大きくは矛盾しません。
「弁皇子」の基本情報
総登場回数
1回
活動期間
1巻にわたって登場
初回登場
桃園の巻
最終登場
桃園の巻
最も活躍した巻
桃園の巻 (1回登場)
「弁皇子」登場回数
合計: 1回
0 0 0 0 1 1 桃園の巻 0 群星の巻 0 草莽の巻 0 臣道の巻 0 孔明の巻 0 赤壁の巻 0 望蜀の巻 0 図南の巻 0 出師の巻 0 五丈原の巻
最終更新日: 約7時間前